「野に雁の飛ぶとき」ジョーゼフ・キャンベル 武舎るみ訳
角川書店 1996年
「聖なるものの世俗化」p198〜
「…東洋における神々の崇拝の究極の目的は、実体と自分自身が同一であることを認識し、その実体が万物に内在していることを実感することであって…
神々を崇拝するときには、「『神』は、自分自身の最も重要な『自我(セルフ)』に他ならない。この『神』において、すべての神々がひとつになるのだから」という認識を持っていなければならない。
こうして「私はブラフマンだ!」という認識をもっている者はだれでも、この『万物』になる。こう認識した瞬間に、その人物は神々の『自我(セルフ)』になってしまうからである。そのため、この『セルフ』以外の神をあがめ、「神と私は別々のものだ」と考えている者にはわかっていない。
これと「創世記」の次の一節を比較してほしい。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」こうして(神は)アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎をおかれた。」
…
私は、太平洋戦争で我が国が日本と戦っていたときにニューヨークの新聞で見た写真が忘れられない。それは奈良の東大寺の南大門の南大門のなかに立つ二体の巨大な金剛力士像の一体を写したもので、金剛杵を振りかざして、恐ろしい顔つきをしていた。東大寺そのものの写真や、菩提樹の下で手の平を揚げて「恐るなかれ」のしぐさ(右手の平を開き、外に向けて肩のあたりに上げる施無畏印)をしている大仏の写真はなく、恐ろしい形相で脅すケルビム役の仏像が載っているだけで、写真の下には「日本人はこんな神を崇拝している」というキャプションがあった。
そのとき私の心に浮かんだ唯一の明白な考えは(それはいまもなお消えないが)、「それは日本人ではなく、われわれだ!」というものであった。エデンの園から人間を追い出そうとするような神を崇拝しているは、ほかならぬわれわれだからである。東洋の考え方はまったく逆で、門番が守る門を通って「不死の命の木」の実を、われわれ自身が、いま、この地上に生きているあいだに摘み取るというものなのである。」
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2019年04月08日
謙虚に
「徒然草 第二百三十三段」
「何事につけても欠点をなくすようにしたいと思うなら、何をするにも誠意をこめてやり、誰に対しても慎しみ深い態度をとり、口数を少なくするというのにまさることはあるまい。男女・老若を問わず、人はみなそういう人が最高に立派なのだが、とりわけ、年も若く容貌もすぐれている人で言葉づかいの端正なのは、いつまでも忘れがたく印象にとどまるものである。
何事につけても現れてくる欠点は、手馴れた様子でいかにも巧者らしく振る舞い、自分として最高の地位を確保したというような傲慢な態度をとり、他人をまるで無能力者であるかのように、無視して軽蔑するところにあるのである。」
(原文)
「万(よろづ)の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分(わ)かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちのよき人の言(こと)うるわしきは、忘れ難く、思ひつかるるものなり。
万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。」
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ひたすら誠実に謙虚に。
「何事につけても欠点をなくすようにしたいと思うなら、何をするにも誠意をこめてやり、誰に対しても慎しみ深い態度をとり、口数を少なくするというのにまさることはあるまい。男女・老若を問わず、人はみなそういう人が最高に立派なのだが、とりわけ、年も若く容貌もすぐれている人で言葉づかいの端正なのは、いつまでも忘れがたく印象にとどまるものである。
何事につけても現れてくる欠点は、手馴れた様子でいかにも巧者らしく振る舞い、自分として最高の地位を確保したというような傲慢な態度をとり、他人をまるで無能力者であるかのように、無視して軽蔑するところにあるのである。」
(原文)
「万(よろづ)の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分(わ)かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちのよき人の言(こと)うるわしきは、忘れ難く、思ひつかるるものなり。
万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。」
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ひたすら誠実に謙虚に。
posted by Fukutake at 10:10| 日記
2019年04月04日
認識の鬼
「賢い利己主義のすすめ」ポスト・モラリズム宣言 頼藤 和寛
人文書院 1996年
生命以上の価値 p237〜
「… われわれはすでに物心つく以前から一つの「いのち」を得ており、しかも、それが刻々と減っていく日向の氷みたいなものであるとするなら、溶けてなくなるまでにその「いのち」の使い道を方向づけねばなりません。科学が教えてくれず、宗教も所詮は護教的で既製服的な答えしか持ち合わさぬとするならば、われわれ一人一人が、自分にしっくりくるような「寿命の用途」を見出さねばならない。そして、「三度のメシより好きなこと」や「命を賭してもやり遂げたいこと」を、自分なりに発見した人は、それこそ祝福された者なのです。そうした人生の目的が、歴史において、また宇宙において、いかほどの意味があるのかと問うのは、野暮というものでしょう。
いずれにせよ、自分の「命より大切な」価値や指針を持てるならば、われわれの精神は活性化されます。それが幻想であろうが誤解や迷信であろうが、われわれの心身に対する作用が好ましいことは確かなのです。そうした「生命より大切な価値」をみずから構成した元気者を、個人的な妄想とは知りつつも、われわれは賞賛してあげてもよい。ただし、その人が自分以外の生命を軽んじたり粗末にしたりしないという、例外なしの条件において、です。てめえの理想に殉じるのは勝手だとしても、他人の死活まで道連れにされてはかなわない。これはもう価値とか倫理とかいって済むレベルの問題というより、最低限の「現存在エチケット」みたいなものです。
われわれ人間は、なにを考えようがなにをしでかそうが、すべて自分の心情的満足を求めようとする利己的反応としてしか発し得ない生き物なのですから、せめて自分以外には過大な迷惑のかからないように配慮すべきでしょう。どんな立派な目的のためであれ、それに協力しない人々に被害を及ぼすことは正当化され得ない。その「立派な目的」も、所詮は言い出しっぺ個人の心理的事情に基づいた快楽主義に他ならないからです。目的が「人々を救うため」であっても、動機は「救いたい」という己の欲望を満足させたいためや、「救い主」という自己像を確認したいためなのですから、畢竟するに自己の満足を求めていることになります。人助けをはじめとするさまざまな利他行が趣味なら、それはそれでよろしいが、趣味や道楽ならそれらしく、あまり大きな顔をして世間から有形無形の見返りを期待なぞするなと言いたい。
たぶん人間には、自分に被害が及ばないかぎり、他人の思想、趣味、生き甲斐、精神保健の工夫について口をはさむ権利などないのです。われわれに許されることは、単に「こうすればこうなる。ああすればああなる」を提示したあとで、「さあ、あなたはどうするか」と問うことだけなのでしょう。」
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人文書院 1996年
生命以上の価値 p237〜
「… われわれはすでに物心つく以前から一つの「いのち」を得ており、しかも、それが刻々と減っていく日向の氷みたいなものであるとするなら、溶けてなくなるまでにその「いのち」の使い道を方向づけねばなりません。科学が教えてくれず、宗教も所詮は護教的で既製服的な答えしか持ち合わさぬとするならば、われわれ一人一人が、自分にしっくりくるような「寿命の用途」を見出さねばならない。そして、「三度のメシより好きなこと」や「命を賭してもやり遂げたいこと」を、自分なりに発見した人は、それこそ祝福された者なのです。そうした人生の目的が、歴史において、また宇宙において、いかほどの意味があるのかと問うのは、野暮というものでしょう。
いずれにせよ、自分の「命より大切な」価値や指針を持てるならば、われわれの精神は活性化されます。それが幻想であろうが誤解や迷信であろうが、われわれの心身に対する作用が好ましいことは確かなのです。そうした「生命より大切な価値」をみずから構成した元気者を、個人的な妄想とは知りつつも、われわれは賞賛してあげてもよい。ただし、その人が自分以外の生命を軽んじたり粗末にしたりしないという、例外なしの条件において、です。てめえの理想に殉じるのは勝手だとしても、他人の死活まで道連れにされてはかなわない。これはもう価値とか倫理とかいって済むレベルの問題というより、最低限の「現存在エチケット」みたいなものです。
われわれ人間は、なにを考えようがなにをしでかそうが、すべて自分の心情的満足を求めようとする利己的反応としてしか発し得ない生き物なのですから、せめて自分以外には過大な迷惑のかからないように配慮すべきでしょう。どんな立派な目的のためであれ、それに協力しない人々に被害を及ぼすことは正当化され得ない。その「立派な目的」も、所詮は言い出しっぺ個人の心理的事情に基づいた快楽主義に他ならないからです。目的が「人々を救うため」であっても、動機は「救いたい」という己の欲望を満足させたいためや、「救い主」という自己像を確認したいためなのですから、畢竟するに自己の満足を求めていることになります。人助けをはじめとするさまざまな利他行が趣味なら、それはそれでよろしいが、趣味や道楽ならそれらしく、あまり大きな顔をして世間から有形無形の見返りを期待なぞするなと言いたい。
たぶん人間には、自分に被害が及ばないかぎり、他人の思想、趣味、生き甲斐、精神保健の工夫について口をはさむ権利などないのです。われわれに許されることは、単に「こうすればこうなる。ああすればああなる」を提示したあとで、「さあ、あなたはどうするか」と問うことだけなのでしょう。」
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posted by Fukutake at 11:37| 日記