「神は詳細に宿る」 養老孟司 青土社 2019年 (その2)
「虫のディテールから見える世界 (初出 『ユリイカ』2009年臨時増刊号 青土社)
p151〜
「テレビの世界になった時に、大宅壮一が「一億総白痴化」と言いましたが、あれは間違っていて、「」一億総インテリ化」したんです。インテリというのはいわゆる二次情報のことをやっているけれども、肌で感じたことで物事に対処していくのではなくて、頭で考えて対応している・テレビにしても、匂いもなければ風もなければ温度もわからない、そういう状況を画面で見て音声を聞いて、世界を掴んだつもりになっている。そういう世界はおとぎ話の世界と同じで、ものすごく当てにならない。「環境問題」なんて一言で環境を外の世界のことのように言うけれども、そうじゃなくて、環境というのは自分のことですよ。自分のどこが環境かと言えば、身体です。だって一億からの生物が住み着いているわけでしょ。カリニ原虫が肺炎を起こすエイズを考えてみればわかりますよ。免疫系が衰えてくるから病気に見えるのであって、カリニ原虫なんて誰にでも住んでいますから。ご存知のように、お腹や口の中にだって億単位の細菌が住んでいます。歯垢を取ってちょっと潰して顕微鏡で見れば、細菌がうようよ泳ぎ回っていますよ。だから、人間だって生態系なんだけれども、そういう意識はないでしょ。帰宅してうがいをして手を洗ったりということをものすごい神経質にやっている人がいるけど、そういう人にはあんた自身が細菌の巣窟なんだという現実を見せてやればいい。そうしたら除菌グッズなんて意味がない(笑)。そういう人たちに向かって生物多様性とか環境とかいう話をするのは、私はもう嫌なんです。じゃあどうすればいいかって、外に連れ出すのが一番。「とにかくその辺を歩いてこい」って。
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2019年03月25日
ミクロへ
「神は詳細に宿る」 養老孟司 青土社 2019年 (その1)
「まえがき」より
p7〜
「… 詳細はバカにされるものである。どうでもいいでしょ。そんなこと。確かにそういうことはある。虫の細部を見ても、なんの役にも立たない。
でも私は解剖学や昆虫の分類のように、とりあえず世間の役には立たないことを一生やってきた。本を書いたり、講演をしたりするから、他にも仕事をしているじゃないか、と思う人もあろう。でもそれは世間様とのお付き合いである。自分だけが関わるわけではない。その種の仕事は独りではできないし、お陰様でというしかない。
詳細を調べると、いろいろなことがわかる。そうすると、なにが起きるか。世界が膨張する。ビッグバン以来、宇宙は膨張し続けているという。詳細を見ることは、それと同じである。詳細を見ることによって、当然ながら、見ていない部分にも、徹底的に詳細があることがわかる。その意味でこそ、世界が広がる。詳細を見るたびに、宇宙は膨張するのである。それを感じることはないだろうか。
世界を横に見て、広いなあと感じる。それは当たり前である。ウィルスの分子構造がわかった時に、ヒトの身体の構造をその詳しさで調べてみたら、人体がどこまで巨大になるか、まさに小宇宙なんだと気づくはずである。
脳はどこまでわかりましたか。そう訊ねる人がある。どこかで100パーセントわかると思っているらしい。そうはいきませんね。詳細がわかればわかるほど、脳は膨張するんですからね。
でも結局は同じことの繰り返しでしょ。一つのことが詳しくわかったら、以下同様でいいじゃないですか。おかげで今度は世界が狭くなる。現代人の世界はその意味で極めて狭い。すべてはゼロと一とで描けてしまうからである。さらに、どうせ同じなんだから、私なんかいてもいなくてもいい。そういうことになって、万事がどうでもいいことになってしまう。そのくせ考え方の違いで、殺し合いになったりする。大局観を一致させようとすると、喧嘩になるからである。詳細を見ていたら、そういう喧嘩の暇はない。
他方、詳細に淫するということもある。だから虫の話は詳しくはしない。そういう詳細は論文にする。あるいはなんにもしない。自分が理解すれば、それでいいからである。…」
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細かく見るほど世界が広がる。
「まえがき」より
p7〜
「… 詳細はバカにされるものである。どうでもいいでしょ。そんなこと。確かにそういうことはある。虫の細部を見ても、なんの役にも立たない。
でも私は解剖学や昆虫の分類のように、とりあえず世間の役には立たないことを一生やってきた。本を書いたり、講演をしたりするから、他にも仕事をしているじゃないか、と思う人もあろう。でもそれは世間様とのお付き合いである。自分だけが関わるわけではない。その種の仕事は独りではできないし、お陰様でというしかない。
詳細を調べると、いろいろなことがわかる。そうすると、なにが起きるか。世界が膨張する。ビッグバン以来、宇宙は膨張し続けているという。詳細を見ることは、それと同じである。詳細を見ることによって、当然ながら、見ていない部分にも、徹底的に詳細があることがわかる。その意味でこそ、世界が広がる。詳細を見るたびに、宇宙は膨張するのである。それを感じることはないだろうか。
世界を横に見て、広いなあと感じる。それは当たり前である。ウィルスの分子構造がわかった時に、ヒトの身体の構造をその詳しさで調べてみたら、人体がどこまで巨大になるか、まさに小宇宙なんだと気づくはずである。
脳はどこまでわかりましたか。そう訊ねる人がある。どこかで100パーセントわかると思っているらしい。そうはいきませんね。詳細がわかればわかるほど、脳は膨張するんですからね。
でも結局は同じことの繰り返しでしょ。一つのことが詳しくわかったら、以下同様でいいじゃないですか。おかげで今度は世界が狭くなる。現代人の世界はその意味で極めて狭い。すべてはゼロと一とで描けてしまうからである。さらに、どうせ同じなんだから、私なんかいてもいなくてもいい。そういうことになって、万事がどうでもいいことになってしまう。そのくせ考え方の違いで、殺し合いになったりする。大局観を一致させようとすると、喧嘩になるからである。詳細を見ていたら、そういう喧嘩の暇はない。
他方、詳細に淫するということもある。だから虫の話は詳しくはしない。そういう詳細は論文にする。あるいはなんにもしない。自分が理解すれば、それでいいからである。…」
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細かく見るほど世界が広がる。
posted by Fukutake at 08:53| 日記
2019年03月20日
精神病になる
「ひき裂かれた自己」R.D.レイン みすず書房 1971年
(その2)
p185〜
精神病への発展
「…そこには世界との<生ける接触>の喪失がある。そしてそのかわりに、他者や世界との関係は、前にも述べたように、にせ自己の体系によってとりしきられることになるのであるが、このにせ自己の体系の知覚、感覚、思考、行動などは相対的に低い現実<係数>しかもたない。この状況にある人間は、比較的正常に見えるかもしれないが、このような正常との外見上の類似性を維持するためには、ますます異常な、そして絶望的な手段が必要となってくる。自己は白昼夢の中で、<精神的な>ものからなる私的な<世界>と、つまり自分自身だけを対象とする私的な世界との関係を結ぶ。そして実生活において他者との<共有の世界>と関係を結ぶのは自己ではなくにせ自己のみとなり、自己はこのにせ自己を観察するということになる。つまりこの現実の他者と分かちもたれる世界における他者との直接のコミュニケーションは。にせ自己の体型に譲り渡されているわけであるから、自己はこのメディアをとおしてのみ、外なる<共有の世界>とのコミュニケーションが可能となるのである。だから最初は、自己に対する破壊的な危害を予防するための守備軍あるいは防壁として作られたものがついには自己を閉じこめる牢獄の壁となりうるのである。
このようにして世界に対する自己の防衛は、防衛というもののもつ一次的機能さえ喪失するにいたる。つまり他者に物としてとらえられ操られるのを妨げることによって、迫害的な力の侵入(内破)を防ぎ、自己を生きのびさせようという本来の機能をさえ失うのである。そして不安は以前よりもはるかに強く忍び寄ってくる。知覚の非現実性とにせ自己の体系がもつ目的の欺瞞性とは、やがてひろがって、他者と共有される世界全体の死を感じさせるようになり、さらには身体にも、いや事実上すべてのものに及び、ついには<真>の自己にさえ侵入するにいたるのである。<白昼夢化>され、引き裂かれ、死に、不安定ながらも当初持っていた自分自身のアイデンティティの感覚さえ、もはや維持できなくなる。そしてこの状態は、防衛の中でよりによって最も不吉な可能性が使用されることによって、悪化していく。例えば、アイデンティティを保持しておくために、アイデンティティを他者に確認されることからのがれるという防衛をもちいる。(というのは、まえに指摘したように、アイデンティティを達成し保持するためには二つの側面が必要であるからである。つまり、個人が自分は自分自身だとする単純な確認と同時に、他者によって自分が確認されることが必要である。あるいは、生きることの苦痛に対する防衛として<生きながらの死>の状態を計画的につくりあげる。こういう可能性が用いられることによって、この状態はますます悪化していくのである。
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(その2)
p185〜
精神病への発展
「…そこには世界との<生ける接触>の喪失がある。そしてそのかわりに、他者や世界との関係は、前にも述べたように、にせ自己の体系によってとりしきられることになるのであるが、このにせ自己の体系の知覚、感覚、思考、行動などは相対的に低い現実<係数>しかもたない。この状況にある人間は、比較的正常に見えるかもしれないが、このような正常との外見上の類似性を維持するためには、ますます異常な、そして絶望的な手段が必要となってくる。自己は白昼夢の中で、<精神的な>ものからなる私的な<世界>と、つまり自分自身だけを対象とする私的な世界との関係を結ぶ。そして実生活において他者との<共有の世界>と関係を結ぶのは自己ではなくにせ自己のみとなり、自己はこのにせ自己を観察するということになる。つまりこの現実の他者と分かちもたれる世界における他者との直接のコミュニケーションは。にせ自己の体型に譲り渡されているわけであるから、自己はこのメディアをとおしてのみ、外なる<共有の世界>とのコミュニケーションが可能となるのである。だから最初は、自己に対する破壊的な危害を予防するための守備軍あるいは防壁として作られたものがついには自己を閉じこめる牢獄の壁となりうるのである。
このようにして世界に対する自己の防衛は、防衛というもののもつ一次的機能さえ喪失するにいたる。つまり他者に物としてとらえられ操られるのを妨げることによって、迫害的な力の侵入(内破)を防ぎ、自己を生きのびさせようという本来の機能をさえ失うのである。そして不安は以前よりもはるかに強く忍び寄ってくる。知覚の非現実性とにせ自己の体系がもつ目的の欺瞞性とは、やがてひろがって、他者と共有される世界全体の死を感じさせるようになり、さらには身体にも、いや事実上すべてのものに及び、ついには<真>の自己にさえ侵入するにいたるのである。<白昼夢化>され、引き裂かれ、死に、不安定ながらも当初持っていた自分自身のアイデンティティの感覚さえ、もはや維持できなくなる。そしてこの状態は、防衛の中でよりによって最も不吉な可能性が使用されることによって、悪化していく。例えば、アイデンティティを保持しておくために、アイデンティティを他者に確認されることからのがれるという防衛をもちいる。(というのは、まえに指摘したように、アイデンティティを達成し保持するためには二つの側面が必要であるからである。つまり、個人が自分は自分自身だとする単純な確認と同時に、他者によって自分が確認されることが必要である。あるいは、生きることの苦痛に対する防衛として<生きながらの死>の状態を計画的につくりあげる。こういう可能性が用いられることによって、この状態はますます悪化していくのである。
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posted by Fukutake at 11:51| 日記