2019年02月27日

支那の植民地化の加速

「アロー戦争と圓明園」 矢野 仁一 中央公論(中公文庫)1990年
(支那外交史とイギリス その2)

解説 宮崎 市定

p351〜
 「…アヘン戦争はアヘン問題が原因となって勃発しながら、その結果たる南京条約はこの問題に決着をつけることなく終わった。そこで英国人は依然として中国人にアヘンを売ることを既得権として行使し、中国官憲は従前の如く人民に売買吸飲するを厳禁する国法を励行するために努力した。この矛盾が暴発したのが一八五六年のアロー戦争であった。
 この戦争の経過と推移もまた、英仏両国の貪欲と不義を暴露して恥ざる厚顔さに終始するものであった。一八五八年、英仏連合軍が白河を遡って天津に迫り、清朝との間に締結した天津条約は実施されぬまま、翌年の再開戦となり、一八六〇年、両軍が三たび大挙して北京を脅し、清朝をして城下の盟をなさしめた北京条約は前約の条項をそのまま活かしたる上に、更に過大なる要求を呑ましめたものであった。軍事賠償金は前約を加倍したる上に、清軍が犯したる捕虜虐殺に対する補償などを加えて巨額に上り、その支払いに関税を充当することに定めたるため、これがやがて中国が関税自主権を喪失するに至る端緒となった。
 更に条約上に現れずして清朝が蒙りたる莫大の損失は、西山の離宮、圓明園が両国軍によって一物も残さぬまでに内部の宝物を掠奪された上、建物全体を破壊焼却された事実であった。この離宮は雍正帝時代に始まり、次代の乾隆年間に一層修飾が加えられ、ヴェルサイユ宮殿に模したる西洋流建築、さては噴水庭園などが設けられ、四庫全書館の如き文化施設も備わり、清朝歴代の君主が最も愛好したる居住区であった。これは単に清朝天子の所有物たるに止まらず後世に残して中国が世界に向かって誇るべき文化遺物なるべきであったのだ。この未曾有の蛮行について。英仏の当事者は種々の理由をあげて弁明するが、何人も首肯せしめ難い。恐らく事実は、軍人等の恣意なる掠奪を制止する力がなかったのではあるまいかと思われる。

 このように南京条約から天津条約へ、天津条約から北京条約へと、清朝はいよいよその負える手傷を深くしてきたので、これもとより英国の飽くなき利欲追及によるものであるが、また一方清朝側にもかかる不利を自ら招いた弱点もなしとしない。それは清朝が古来の自己陶酔的な中国的世界観に固執して、宇宙の大勢の変化を知らず、清朝皇帝は全世界の主権者であらねばならぬという妄想を現実に維持しようと、時代遅れの努力を払い続けたによる。」

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それにしても、英仏の酷さよ。
posted by Fukutake at 11:24| 日記

2019年02月25日

イギリスの支那侵略

「アロー戦争と圓明園」 矢野 仁一 中央公論(中公文庫)1990年
(支那外交史とイギリス その1)

 序

 「アヘン戦争の結果イギリスによって押しつけられた南京条約以来始まった支那のヨーロッパ・アメリカ勢力の半植民地化は、西暦一八五八年の天津条約、同一八六〇年の北京条約、同一八七六年の芝罘(チーフー)条約によってほとんど完成したといってよい。天津条約はイギリスがアロー戦争の結果支那に押しつけた条約、北京条約はイギリスが天津条約の批准交換は北京で行わなければならぬ、それには軍艦で白河を進航しなければならぬ、支那の白河口を閉塞し、大沽(ターク)砲台を修築するのは背約不信の行為であるといって、フランスと共に北支那遠征軍を起こしその結果支那に押しつけた条約、芝罘(チーフー)条約はイギリスが雲南省蛮允におけるマーガリー殺害事件を口実とし、トーマス・ウェード(威妥馮)の恫喝威嚇によって支那に押しつけた条約である。香港及び九竜地方のイギリスに割譲されたのも、広東・上海・厦門・芝罘・天津等の諸港の外国貿易に開放されたのも、上海・上海・天津・広東・厦門(鼓浪嶼)等において外国租界の発生したのも、外国人の治外法権即ち外国領事裁判権、輸入関税率、外国人の海関管理権の約定或いは協定されたのも、イギリスの揚子江における通商航行等の諸権益が譲許されたのも皆この間の出来事であった。これらはいずれも支那の国家主権の重大な損失であったが、それよりも一層支那のヨーロッパ・アメリカ勢力の半植民地化の完成に与って力があったものは、そのヨーロッパ・アメリカ勢力の半植民地化の事実についての認識を欠き、これを脱却せんとする真摯の要望、真摯な努力が起こらなかったことである。そうしてついに後に、支那に対してみずから門戸開放・機会均等を拒んでいるようなアメリカの不正義・不公平な支那の門戸開放・機会均等の主張を歓迎して、あたかも正義公平の主張であるがごとき観を与えしむることに助力するようになり、それがみずからヨーロッパ・アメリカ勢力の半植民地たることを承認するにも等しきものであることを理解することができないような心理状態に陥ったことである。
イギリス人はアロー戦争、北支那戦争の原因となったアロー号事件はイギリス国旗の侮辱事件であるといった。またコップを溢した一滴の水といえばその適当の評価である(イギリス全権大使エルギン伯の報告)とか、支那イギリス両国の敵対関係を生じた支那人の種々の不正行為の頂点である(同上)といってみずから弁護した。アヘン戦争の結果、支那おして割譲せしめた香港がつい支那の目のさきにある地位を利用して、登録税を取って、支那の国法に違反して支那のアヘン密売に従事する船や海賊の乗込んでいる船にイギリスの船籍を与え支那の法律より免れしめ。支那をして捕縛することも処分することも不可能ならしむるような保護を与うるイギリスの国旗は侮辱されても仕方がないではないか。エルギン伯は自分はずいぶん支那を残酷に扱った。しかし自分は支那の親友であるといった。残酷ではあったが、どこに親友の実があったか。
 私は、『アヘン戦争と香港』においてアヘン戦争の責任を論じた。アロー戦争についても日本人中にも支那人中にもアヘン戦争同様その責任を論じたものは未だないようである。私は本書において敢えてみずからこれに当たることを期した。芝罘条約・緬甸(ビルマ)問題・パミル問題等支那イギリス両国の重要な外交交渉事件もつとめてその要概を論叙し、『アヘン戦争と香港』の姉妹編となし、これと相合して支那イギリス外交史の完璧たらしむることを期した。」
 昭和十四年 矢野仁一

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イギリスの悪辣さが活写されている
posted by Fukutake at 10:55| 日記

2019年02月20日

中国人の愛国心?

「アヘン戦争と香港」 矢野 仁一 著 中公文庫(中央公論社)1990年
(その3)

アヘン戦争中に現れたる支那人民の非愛国心

p297〜

 「アヘン戦争において支那の現に敵として戦いつつあるイギリス軍に情報・糧食・労力を提供する支那人は多く、イギリスをしてすこぶる奇異の感を抱かしめた。支那人は金銭のためにはいかなる敵の御用をも勤めて憚らなかった。奕山が広東において木筏船・油薪船・水師船を集め夜に乗じイギリス船の火攻を計画した時、それらの船はイギリス兵及び漢奸に焼尽されたということである。また奕山はしばしば広東の人民は皆漢奸であると奏し、わざわざ水勇を福建に募ったということは「中西紀事」に見えている。かれは千余人の漢奸を収回したこともその上奏に見えている。漢奸は敵に款を通ずる売国支那人である。「チャイニーズ・リポジトリー」誌一八四一年十月号訳載の広東巡撫の論示はいかにイギリス人の富に垂涎し、甘んじてその使役に服し、支那人との戦にイギリス人を助けた支那人が多かったかを暴露している。イームスは支那人の愛国心を疑い、西暦一九〇〇年六月に義和団事件に応じて天津のイギリス租界を攻囲し、外国人を殲滅せんと熱狂せる支那人が八月には北京救援の連合軍のために種々の手助けをなし、北京の外国公使館を包囲攻撃せる支那兵は攻撃のひまひまに瓜・鶏卵等を売りに来たような状態は、すでに早くこの時にも現れていると述べている。支那人は往々愛国的な宣伝に煽誘されて(蕭に口偏)聚響応し、狂熱的な排外運動を起こし、一見強烈な愛国的運動であるごとき観を呈することもあるが、一たび外国人から強力な抵抗を受くれば、そうでなくとも少しく時日を経過すれば去勢されたごとく変退沈衰し、なんのためにあんな狂熱的な運動をなしたかみずから忘れたようになり、外国人の御用をつとめて怪しまないことはすでにアヘン戦争から現れていた。支那人は攻撃戦争とか排外風潮の場合には、勢いに乗じてずいぶん愛国的運動らしいことをなすが、防御戦争とか排外風潮の止んだ時とかに現れる愛国心でなければ、真の愛国心とはいい難い。
 アヘン戦争に関する支那官憲の奏報はいかなる場合でも自己の立場を擁護することを忘れず、朝廷をして対策を誤らしめざるように、自分の立場などを顧みず事実を直陳することを以って念としないようなことも、支那人に真の愛国心なき証拠ではないか(王ヘンに「奇」善・奕山らの広東・虎門内外における戦況の上奏などはその最もよい例であって、おおむね勝敗を顚倒した虚偽の報告である。」


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支那人の本質
posted by Fukutake at 07:26| 日記