2018年11月05日

開国の強制

「共同研究 パル判決書(下)」 東京裁判研究会編 
  講談社学術文庫 1984年
(その7−2)

 日本が強要された開国の事情
 p228〜

 「本官は、一八五三年から一八九四年までの…期間中西欧列強のなした全ての事情が『純粋な心からの崇高な目的』をもってなされ、そしてたんに西欧との交際の恩恵に与らしめるためになされたものと仮定しても、これをなすにあたって採用された手段は、明らかに日本にとっては首肯できないものであった。しかしながら国際法上においては、それはたんなる日本の「平和的開国」であった。一八五四年の合衆国、大英帝国およびロシアとの諸条約が、この経緯の発端である。日本は条約を結ぶためにあらゆる正式の「要請」を許容しなければならなかった。しかしこれらはたんなる序の口であった。新しい要求といっそうの譲歩がこれに続いたのである。
 一八五八年の七月には「六月の清国に大英帝国およびフランスの艦隊および軍隊の圧迫下に、両国と、新しい条約に署名することを強いられたという報せをもたらした合衆国の船が、下田に到着した。そしてこれらの勝ち誇った連合軍は、その艦隊を引き具して日本に向かおうとしていると報ぜられたのである。」この報は首都を驚倒させた。七月二十九日の早朝、日本は新しい条約に署名することに同意した。「清国において欧州諸国の干渉が成功を収めたことは、おそらく日本からおなじような条件をかちえるための強硬な努力の動機になるであろう。もしも皇室がさらに譲歩することを禁じ続けたならば、敵対行為が起こる可能性は大いにあった。…」。「数週間以内にロシアおよび大英帝国の代表者が清国に到着し、しばらくしてフランスの使節も続いて到着した。長崎からはオランダの使節もまた新しい条約を求めて到着した」。
 日本はこれらの四つの条約を締結しなければならなかった。
「もしも威嚇的な武力を楯にとって、この譲歩が獲得せられたのであれば、この新しい国交は、あらゆる勤王派の胸に悲憤の念を起こさせる条件のもとに開始されたであろう」ということが、われわれに告げられているのである。実際に採用された手段が、どのようにしてこの悲憤の念の発生を防いだかを理解することは困難である。われわれは、西欧諸国にこれらの行動をとる資格を与えている。かられが「直面した事態」はなんであったか正確には知らない。しかしなから国際社会は、これをたんに人間の行動を規定し、そしてまたそれを否定する事態の推移としてしか見ないのである。
 …
 この後、これらの条約の改正のための日本の闘争が始まるのである。この闘争は一八九四年まで続いた。この期間日本は、西洋思想および科学の偉大な成果をわがものにしようと、あらゆる努力を払った。また日本は、かようにして参加を強いられた世界においては、正当と正義とは軍艦と軍団の数によって測られるものであることをも、おそらく自覚したものであろう。」

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明治日本は西欧のルールを苦しみながら学んだ。

 
posted by Fukutake at 09:54| 日記