2018年09月14日

太平天国の乱の始末

「中国政治論集−王安石より毛沢東までー」 宮崎市定 著 1989年
 中央公論文庫
(その2)

曾国藩 清朝同治帝への奏上(宮崎市定訳)

243p〜

 「臣等が謹んで考えますのに、洪秀全が広西省で乱を起こしてから、今で十五年になり、南京を占領してからでも十二年になります。その間、中国に毒をばらまき、神おも人おも憤慨にたえざらしめた。清朝の武勲の盛んなことは遥かに前代を凌駕し、度々大なる内乱を平定したことは歴史に明らかに記されている。しかし嘉慶年間に四川湖北における白蓮教匪の乱(一七九六〜一八〇四年)は、波及したのは僅かに四省であり、占領された城は十余に過ぎない。(ここにいう城とは周囲に城郭をもつ都市、すなわち大体県以上と考えてよい。鎮は市街をなすが、普通には城壁をもたぬからである。)次に康熙年間の三藩の乱も波及したのは十二省、陥落したのは三百余城であった。然るに今度の太平天国の乱は洗浄となった省は本部十八省のうち、最も軽微な雲南・甘粛の二省を除いて十六省に及び、占領された城は六百以上の多きに上った。敵の中でも特に兇悍な徒党の例をあげるならば、一八五五年に利開芳が山東省の馮官屯を守り、一八五九年まで林啓容が九江を守り、一八六〇年まで葉芸来が安慶を守ったごとき、みな堅忍不抜で死ぬまで戦った。この度、南京城が陥っても、十万余人の敵が一人として降参するものなく、集団で自焚しても悔いることを知らない、実に歴史上にも滅多に見られない劇賊と言うべきである。」(抜粋)

 (宮崎先生の論評)
 「この文章は短いが太平天国十五年の歴史の総括といってよく、同時にそれは曾国藩自身の回顧でもあり、恐らく感慨無量なるものがあったであろう。殊に九江と安慶の攻防戦は、太平軍と湘軍とが運命をかけた決戦であり、両度とも湘軍の勝利に帰し、太平軍は毎回、二万人近い精鋭が殲滅され、この後形勢は日増しに悪化し、これに反して曾国藩の前途に洋々たる希望が見え始めたのであった。それにしても最後の南京包囲戦において湘軍の死者約二万人、太平軍の十万余人とは実に莫大な数字である。曾国藩は敵側で一人として降伏する者が無かったと言っているが、実はこの際に大虐殺が行われたので、降伏するにも遑(いとま)がなかったらしい。それはどうも掠奪を目的とし、その犯跡を晦ますためには敵を生かしておいては都合が悪かったのであろう。太平軍も湘軍も初期においては軍規が厳粛であったが、長い戦争の後に次第に規律を失って堕落し、掠奪が日常の行事となった。湘軍に後には商人群が随行し、将兵の掠奪品を買受け、或いは給与や他の所得を故郷へ送り届ける業務を行った。
 
 湘軍の将卒も末期になると、利益の獲得や立身出世の幸運を狙っての戦闘であった。
 内乱による戦争も、一個人の生涯を賭ける大きな博奕の機会として利用されたのである。」

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内戦の実態


posted by Fukutake at 10:25| 日記