2018年09月21日

王安石

「中国政治論集−王安石ー」 宮崎市定 著 1989年
 中央公論文庫
(その3)

王安石(1021〜1086):「上皇帝万言書」より 宮崎先生の訳注

519p〜
 「王安石が描いた宋代の社会は、千年後の日本に共通な点をもっている。人は欲望に追われて齷齪するが、さてその欲望は考えて見れば、世間に対する見栄が十の八九を占める。別荘や車や衣服はもちろん、食べ物までが他人の意向に左右されるならば、いったい自分の生活には何が残るのだろう。礼制があればこんな問題はいっぺんに片付くところ。共産圏には一種の礼制があるらしい。」

547p〜
 「人材不足の害はかくのごときものがある。しかも現今、公卿大夫の位にある大官たちは、誰も天子の為に遠い将来を見渡し、王朝の為に永遠の計を立てようとする者がいないのは、そもそも何故であろうか。昔、晋の武帝は目前を過ごすことだけを旨として子孫のために遠い将来を計らなかった。在位者もみなその日暮しで、風俗は蕩然と堕落し、礼儀を棄て法制を忘れ、上下共に誤って、それを非とする者がなかったが、少数の識者はまさに乱れんとするのを予見した。果たして海内が大乱に陥り、中国が夷狄と変わらぬ状態が二百年も続いた。…
 いかに王安石でも、よくもこんなに先輩たちを無視したような言葉を臆面もなく言えたものだと思う。もし現在の日本で、省の課長あたりが総理大臣の前でこれと似たような事を言ったら、その結果はどうであろうか。」

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先生は王安石のファンに違いない。
posted by Fukutake at 10:09| 日記

2018年09月18日

念仏

「徒然草」第三十九段 (イラスト古典全訳 橋本 武 著 日栄者)

法然上人 54p〜

 「ある人が法然上人に向かって、『念仏を唱える時に、睡魔におそわれて勤行を怠ってしまうことがございますが、そんな時には、どのようにしてこの障害をなくしたらよろしいでしょうか。』と申し上げたところ、上人は『目のさめている間に、念仏なさればよろしい。』とお答えになったが、これはたいへん尊いお言葉だと思う。
 またある時には、『極楽往生は、きっとできると思えばたしかにできることでもあるし、できるかどうかわかったものではないと思えば、それは不確かなことになるのである。』と言われた。これも尊いお言葉である。
 また、『往生できるかどうか。疑いながらにでも念仏を唱えておりさえすれば往生できる。』とも言われた。これもまた尊いお言葉である。」


(原文)
 「或人、法然上人に『念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行を怠り侍(はんべ)る事、いかがして、この障(さわり)りを止(や)め侍らん』と申しければ、『目の醒めたらんほど、念仏し給へ』と答へられたる、い尊(たふと)かりけり。
 また、『往生は、一定(いちぢやう)と思へば一定、不定(ふぢやう)と思へば不逞なり。』と言はれけ利。これも尊し。
 また、『疑いながらも、念仏すれば、往生す』とも言はれけり。これもまた尊し。」

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当時の庶民が信心したのもうなずけます。
posted by Fukutake at 16:56| 日記

2018年09月14日

太平天国の乱の始末

「中国政治論集−王安石より毛沢東までー」 宮崎市定 著 1989年
 中央公論文庫
(その2)

曾国藩 清朝同治帝への奏上(宮崎市定訳)

243p〜

 「臣等が謹んで考えますのに、洪秀全が広西省で乱を起こしてから、今で十五年になり、南京を占領してからでも十二年になります。その間、中国に毒をばらまき、神おも人おも憤慨にたえざらしめた。清朝の武勲の盛んなことは遥かに前代を凌駕し、度々大なる内乱を平定したことは歴史に明らかに記されている。しかし嘉慶年間に四川湖北における白蓮教匪の乱(一七九六〜一八〇四年)は、波及したのは僅かに四省であり、占領された城は十余に過ぎない。(ここにいう城とは周囲に城郭をもつ都市、すなわち大体県以上と考えてよい。鎮は市街をなすが、普通には城壁をもたぬからである。)次に康熙年間の三藩の乱も波及したのは十二省、陥落したのは三百余城であった。然るに今度の太平天国の乱は洗浄となった省は本部十八省のうち、最も軽微な雲南・甘粛の二省を除いて十六省に及び、占領された城は六百以上の多きに上った。敵の中でも特に兇悍な徒党の例をあげるならば、一八五五年に利開芳が山東省の馮官屯を守り、一八五九年まで林啓容が九江を守り、一八六〇年まで葉芸来が安慶を守ったごとき、みな堅忍不抜で死ぬまで戦った。この度、南京城が陥っても、十万余人の敵が一人として降参するものなく、集団で自焚しても悔いることを知らない、実に歴史上にも滅多に見られない劇賊と言うべきである。」(抜粋)

 (宮崎先生の論評)
 「この文章は短いが太平天国十五年の歴史の総括といってよく、同時にそれは曾国藩自身の回顧でもあり、恐らく感慨無量なるものがあったであろう。殊に九江と安慶の攻防戦は、太平軍と湘軍とが運命をかけた決戦であり、両度とも湘軍の勝利に帰し、太平軍は毎回、二万人近い精鋭が殲滅され、この後形勢は日増しに悪化し、これに反して曾国藩の前途に洋々たる希望が見え始めたのであった。それにしても最後の南京包囲戦において湘軍の死者約二万人、太平軍の十万余人とは実に莫大な数字である。曾国藩は敵側で一人として降伏する者が無かったと言っているが、実はこの際に大虐殺が行われたので、降伏するにも遑(いとま)がなかったらしい。それはどうも掠奪を目的とし、その犯跡を晦ますためには敵を生かしておいては都合が悪かったのであろう。太平軍も湘軍も初期においては軍規が厳粛であったが、長い戦争の後に次第に規律を失って堕落し、掠奪が日常の行事となった。湘軍に後には商人群が随行し、将兵の掠奪品を買受け、或いは給与や他の所得を故郷へ送り届ける業務を行った。
 
 湘軍の将卒も末期になると、利益の獲得や立身出世の幸運を狙っての戦闘であった。
 内乱による戦争も、一個人の生涯を賭ける大きな博奕の機会として利用されたのである。」

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内戦の実態


posted by Fukutake at 10:25| 日記