2018年08月16日

国債は国民の借金?(その2)

景気と経済政策」(その2)
  小野善郎 岩波新書 1998年

政府の借金と国の借金の混同


86P〜
 「国債が外国に流れた場合
 国債の元利支払い自体は、国内で納税者から国債保有者への支払いとなり、日本という国全体から見れば、右から左にお金が回っているに過ぎない。それでは、国債を持っている人が外国人であり、そのため国債の元利が外国に支払われる場合には、日本の負担になるように思える。私自身、大蔵官僚や自治官僚の知人から、そうはいっても日本の国債は外国人も買うのだから、やはり彼らに支払うことになって日本の負担になる、といわれたことがある。実は、この場合でも、日本の負担にはならないのである。
 外国人が国債を購入するときには、その国債が新規発行分であれ、いったん日本人に買われた後に外国に売られたものであれ、それを外国人がただで持ち去るわけではない。必ず、それと等価値の外国資産を、日本政府あるいは日本の旧国債保持者に支払って購入するため、国内にその分の外国資産が残るのである。したがって、国債の元利を外国に支払うとともに、それと同価値の外国資産の元利が外国から支払われ、差し引きすれば外国にまったく支払わないのと同じになる。結局、外国人が国債を買っても、日本の負担にはならないのである。
 たとえば、アメリカ人が日本の国債を購入するとしよう。そのとき、アメリカ人はまずドルを売って日本人から円を購入し、その円を日本人に払って日本の国債を購入する。その結果、円はもと通り日本にもどり、アメリカ人の手元には日本の国債が、また日本人の手元にはドルが残る。日本人はドルの現金を保有していても仕方がないから、そのドルを支払ってアメリカ企業の株式か財務省証券を購入する。結局、アメリカ人の手には日本の国債が、日本人の手にはアメリカの株式か財務省証券が残り、将来は国債の利子が日本からアメリカにわたるとともに、アメリカから日本に株式の配当か財務省証券の利子が支払われる。こうして、両国の利子支払い相殺されてしまうのである。」

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なるほど!


posted by Fukutake at 09:33| 日記

2018年08月10日

国債は国民の借金?

「景気と経済政策」(その1)
  小野善郎 岩波新書 1998年

政府の借金と国の借金の混同

84p〜

 「まず、国債の発行を続ければ国を借金漬けにするため、経済が立ち行かなくなるという意味について考えよう。実はこの主張には、政府の赤字と国全体の赤字との、重大な混同がある。ここでいう「国」とは政府部門なのであって、日本という国全体の話ではない。国という言葉は「国全体」という意味とともに「政府」という意味にも使われるために、このような混同が起こっているのである。
 国債発行によって財政赤字が累積するということは、政府部門の民間に対する負債がたまっていることを意味する。他方、民間の資産は土地や株式などの他の資産と国債との合計であるから、国債発行による政府部門の負債の増大があれば、それと同時に民間部門では、ちょうどそれと同額の国債という資産蓄積が起こっている。ところで、国全体の資産とは、民間資産と政府資産・負債との合計である。したがって、国債額いくらたまっても、またいくら減っても、負債と資産がちょうど相殺されて、国全体の資産には何の変わりもないのである。このようなことをいうとき、政府・大蔵省は民間のことをすっかり忘れ、自分こそ「国」そのものだと勘違いし、自分の借金がそのまま国全体の借金だと思い込んでしまっているのであろうか。

 それでは、本当の意味での国の借金とは何であろうか。それは外国への借金、すなわち対外債務のことである。対外債務が膨れ上がれば、その元金と利子の支払いによって、資産が日本から外国へ流れる。そのため、極端に対外債務が増大して、その利子が日本全体の総生産を上回るようにでもなれば、日本人は作ったものをすべてを外国への利子支払いに使わなければならず、何も食べることができなくなり、確かに国の経済が立ち行かなくなってしまう。ところが現実の日本は「対外債務」どころか「対外資産」を世界一ため込んでおり、国が借金で倒れるということは考えられない状況にある。ため過ぎて、アメリカから文句を言われているくらいなのである。(次回に続く)

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posted by Fukutake at 11:23| 日記

2018年08月08日

日本国憲法第九条二項

「九条を読もう!」 長谷川三千子 著 幻冬社新書 2015年

 九条二項は日本国憲法を破壊する 41p〜

(日本国憲法 第九条 :
日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。)

 「いまあらためて、この九条を条文どおりに遵守したとするとどういうことになるのかをあらためて考えてみましょう。まずもちろん、一項にハッキリと約束していた「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するということが不可能になることは、明らかです。そのために必要な手段も権利も一切放り投げてしまうというのですから。
 しかし、それだけではありません。それよりもさらに根本的でさらに深刻な、二つの大きな問題が生じてきます。
 まずその第一は、日本国憲法そのものが、根底から成り立たなくなってしまう、という問題です。
 日本国憲法は基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を三つの柱として成り立っているー これは誰でもが小、中学校で教わったところです。ところが、九条二項を文字どおりに守ったならば、これら三大原理は成り立たなくなってしまうのです。
 基本的人権の尊重については、日本国憲法はまず第十一条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と一般的に語ったあと、第十三条でその具体的内容をこう述べています。− 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。そしてもちろん、このなかで国家がもっとも責任を持って守らなければならないのが、国民の「生命」です。

 実は、この<国民の生命を守ること>こそは、近代民主主義の思想において。もっとも基本となる国家の役目なのです。…(すなわち)もっとも基本的な「人権」の核心は、国家が国民一人ひとりの生命の安全を確保する、というところにあるのです。… 自衛権が「各主権国国家に固有のもの」として認められているのは、もしそれを奪い去ってしまったら、どの国も自国の国民の生命を保障することができず、そんな条約を「各自ノ人民ノ名ニ於いて」宣言することなど不可能だからです。

 ところが、九条二項はそのような<国民の生命を守ること>の手段と権利を奪っています。「交戦権」とは、言うならば国民たちが自ら戦って自らの生命を守る権利なのですが、これが認められないということは、まさしく国家が国民一人ひとりの生命保全の権利を奪い去っているということにある。九条二項は、基本的人権の尊重という原理を根底から叩きこわしているのです。」

(下線:引用者)
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拉致被害も端的な例ですね。
posted by Fukutake at 08:49| 日記