2018年07月11日

陳独秀

「中国文明の歴史」−中国の目覚めー(その2)
 宮崎市定 中公文庫 2000年

 五・四運動について

276p〜
 「五・四運動の火付け役は、じつは陳独秀だったのである。かれはそれよりひと月ほど前に、「新世界」という名の五階建の娯楽場の屋上から、北京市街に向かって宣伝ビラをばらまいた。その内容は、すでに隠退していたが依然として軍閥の大御所である段祺瑞に対する非難、日本からの借款を得て私腹をこやし、宏大な邸宅を建てた曹汝霖らに対する攻撃の文章であった。当時の大総統は徐世昌であったが、警察はただちに新世界を閉鎖し、ビラまきの本人、北京大学文科長陳独秀を捕縛投獄した。学生らのその後過激な行動は、この事件に憤慨したあげくに発生したものにほかならなかった。
 まもなく陳独秀は釈放されたが、もちろん北京大学教授の職は失っている。かれが北京を去って上海に現れると、ここには全国学生連合会が組織され、学生運動の中心となって活動していた。日本の全学連の手本はここにあったのだ。学生たちは上海でも日貨排斥に熱狂しつつあった。この前後の日貨排斥には、必ずといっていいほど、その裏面にはイギリス・アメリカ資本からの扇動があったのも事実である。日貨排斥の先頭に立つのは、アメリカ帰りの留学生や、ミッション・スクールの学生が多かった。上海の学生たちは陳独秀を歓迎し、その排日運動に同調するように請うたところ、かれは木で鼻をくくるようにすげなくことわって言った。
  バイブルの何頁に排日を行えと書いてあるかネ。
 かれの鋭い目は、中国を半植民地の状態に陥れているのは、微力な日本などの存在ではなく、実は排日を裏面で煽っている英米資本主義にほかならぬことを、ちゃんと見抜いていたのである。

(中略)

 中国共産党はその後、幾度か指導者とその方針とを変え、陳独秀から李立三、李立三から毛沢東となって現今に及んでいるが、そのたびごとに前任者の過失が指摘された。陳独秀ごときも、現今では誤ったコースに共産党を導いた前科者のように取扱われている。そして現在中共の歴史学は、共産党成立以前の五・四運動に関しても、つとめて陳独秀の存在を軽視しようと努力している。いわんや胡適はその後、蒋介石の国民政府に重用され、共産革命後はアメリカに亡命したので、中共側から非難を免れるはずがない。中共側によって書かれた歴史には、思想革命や文学革命はぜんぜん問題とされず、ただ五・四運動だけが取り上げられ、しかも陳独秀や胡適とほとんど関係がなかったことを証明しようと全力をあげている。このような態度は決して正しくない。すべて共産主義国家の現代史ほどあてにならぬものはない。」

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歴史も政治である。
posted by Fukutake at 13:34| 日記