2018年06月18日

人間は残酷か?

「浮気人類進化論」 −厳しい社会といいかげんな社会 − 竹内久美子
文春文庫 1998年

 103p〜

 「人間がめったに子殺しをしないのはなぜだろう。こんなことを言うと、大方の良識ある人々から「何をばかなことを言っておるのだ!」と一喝されそうな気がする。
 たしかに、誘拐の後、惨殺された子どもであるとか、親が折檻した末、衰弱死した子ども、ひところ流行したコインロッカーベイビーなど、世の中にあってはならない子殺しの話が山ほど転がっている。しかし、人間という動物の本性を問題にする場合、我々はこれらの話が本当によくあることなのかどうか、他の動物とも比較して考えてみなければならない。
 人間は他の大型、中型哺乳類に比べ圧倒的に数が多い。しかも、「浮気するサル」であるため、他人の行動を事細かく観察し、すぐさま情報交換せずにはいられないという困った性癖を身につけてしまった。そこで今や、地球規模での広くて緻密な情報交換網を発達させ、めったに起こらないような事件まで(いや、めったに起こらない事件だからこそであるが…)逐一報道するようになった。情報の受け手は、それらがまるでしょっちゅうどこでも起きているかのような錯覚を覚えるのである。
 このあたりの事情を、アメリカのE.O.ウィルソンは一九七五年に出版された彼の記念碑的大著『社会生物学』(伊藤嘉昭監修、思索社)の中で次のように言い表している。

 仮に火星人の動物学者が地球を訪れ、地球上の動物の一つの種である人間を非常に長期間にわたって観察するなら、単位時間あたり一人あたりの重傷率とか殺害率で測るとして、人間はかなり平和な哺乳類のなかにいると結論するだろう。たとえ、われわれの偶発的な戦争をこみにして平均化したとしてもである。

 この一説には動物行動学の父と言われるコンラート・ローレンツに対する痛烈な批判の気持ちが込められている。それは、名著と言われているローレンツの『攻撃』(みすず書房)を読んだことのある方なら、すぐにお気づきのことだろう。
 ローレンツは、人間の社会は残忍な殺戮に満ちた世界であるが、野生動物の社会はそういうことの防がれている理想の世界だと訴え続けてきた。ところが、ローレンツのこの神話は見事に崩壊した。今や野生動物の世界を美化しようとするのは、野生動物をだしに使って人間批判をしようとする一部の平和主義者か野生動物の真の姿を知ろうとしない偽ナチュラリストだけである。人間にとって子殺しは何かのアクシデントであるというのが動物行動学の今の見方なのである。」

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野生動物の社会は本当に平和か。
posted by Fukutake at 09:45| 日記

2018年06月13日

違和感を持ち続けること

「『他人』の壁」 養老孟司、名越康文 SB新書 2017年

自意識

204p〜

 養老(孟司):違和感を抱き続けるってどういうことかというと、人間の本当の意味での体力とか強さというものが試されるんですよ。そういう違和感に対するストレスに、耐えていくのが体力であり、ある種の強さなんですよ。だから、そのために山や森へ行って感覚を養えと何度も言っているんです。そこに耐える力が弱いと「そういうもんだ」という生き方しかできない。それで「気づけない」「わからない」と言っても、当たり前のことなんでね。楽をした瞬間に何かができなくなる。損をするというのは当然のことなんです。

名越(康文):「他人からどう思われているだろう」というのは自分に対するトラウマなので、それがある限り、心理学の才能ってなかなか開花しないんです。不思議なもので、自分にあまり関心がなくなると、才能ってぱっと開花する。

養老:自分への関心とかトラウマというのは、だから自意識でしょう。デカルトは自意識について「我思う、故に我あり」と言った。つまり、そのことを考えていることは間違いない事実で、世の中でははっきりしているのは、今これを考えている自分のみだと。自意識というのは、要するにそれじゃないかと言っている。今の人はみんなそうでしょう、「考えている私しかいない」って。この自意識が発端になって、今日ずっと話していますけど、「同じにする」という意識化された行為がはじまるわけですけどね。一方で、これと対立する論点が、仏教でいう「無我」でしょう。考えている自分なんていないと言っているんだから。

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わからないことを考え続ける耐力。
posted by Fukutake at 11:10| 日記

2018年06月11日

光が見えるということ

「生きものの世界への疑問」 日高敏隆 著 朝日文庫 2018年

 光の動物学

249p〜

 「モンシロチョウに紫外線が見えるということは、モンシロチョウにとっては紫外線も光だということである。われわれ人間にとっては、紫外線はまさに紫「外」線であって、光ではない。可視光をまったく含まぬ紫外線だけで照らした部屋に入ったら、われわれは真っ暗いと思う。けれど、その同じ部屋を、モンシロチョウは明るいと感じるであろうし、天井にある紫外線灯はキラキラと輝いて見えるだろう。事実、多くの昆虫はそのような部屋に放たれたとき、紫外線めがけて飛んでゆくのである。
 けれど、いろいろな人々の実験で明らかにされたとおり、モンシロチョウは赤い色が見えない。赤は黒と同じく、暗黒としか感じられないのだ。われわれの心にさまざまな感動をよびおこす夕映えの赤い光は、モンシロチョウにとっては光ではないのである。カール・フォン・フリッシュがいみじくもいったとおり、それは黄外線に過ぎない。
 (中略)

 光が動物によって異なるとはいっても、その範囲は限られている。極端に波長の短い紫外線を光として感じる動物はいないし、赤外線についても同じである。それは生物がつねに不安定な存在であり、かつ自己保存機能をもつ存在であるからである。

 われわれにとって、紫外線は光ではない。けれど、強い紫外線のふりそそぐ夏の浜辺や冬の雪山では、われわれの肌はその化学的作用によって黒く焼けただれる。われわれの眼はその水晶体が紫外線をくいとめるようにできており、それによって紫外線が網膜に達するのを妨げて、大切な網膜が焼けてしまわないようになっている。しかし同時にこのことによって、われわれは紫外線を見ることができなくなった。それは目を保護するしくみである。いわば、光を光としてよりよく認めうるために、紫外線を光の範疇から切り捨てたのである。
 昆虫にしても同じことなのだ。いくら彼らに紫外線が見えるといっても、見えるのはわれわれの光に近い近紫外の部分に過ぎない。もっと波長の短い、そして化学的破壊作用の強い部分の紫外線は、用心深く光から切り捨てている。彼らとてそれを光にしようとは思わなかったのである。」

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「電磁波のどの部分を光とするか。それぞれの種の適応の結果でしょうか。」
posted by Fukutake at 12:44| 日記