2018年06月27日

世界一のピザ

「チーズバーガーズ1」ボブ・グリーン 著 井上一馬 訳 
 文春文庫 1993年

反グルメ論  218p〜

 「『世界一のピザ』を食べてみないか、と何人かの人間に誘われた。
 そのとき、なにを血迷ったのか、私は行ってもいいよ、と答えてしまった。おまけに、新聞でそのピザ・ハウスの名前を書かないことを約束させられた。世界中の人間がその店にピザを食べにくるようなことにでもなってせっかく見つけた場所をだいなしにしたくないのだそうだ。いずれにしても行ってみることにした。とにかくピザには目がないのだ。
 車で一時間十分走って、ようやく目指すピザ・ハウスに到着した。とくにこれといって特徴はない、背の低い建物だった。
 なかには、限られた数のテーブルしかない。客は、店に入るとすぐに注文を求められ、それから席が空くのを待つ。運がよければ、席が空くのとほとんど同時に注文したピザが出てくる。
 なんにしますか、私も注文を促される。
 「ええ、そうね」世界一のピザを食べさせる店にいるのだから、いろいろ試してみたかった。
 「ご注文をどうぞ。なんのピザにします」と催促される。
 「ペパローニにチーズをダブルで」と私はいった。
 「うちはペパローニはやっていません」
私は唖然としてその場に立ちつくした。これは冗談ではない。“世界一のピザ”をだすという店が、ペパローニはメニューにない、といっているのである。
 大声でわめきたてることだってできたはずだ。泣きだしたって不思議ではない。壁を蹴とばしてやる権利だってあっただろう。
 だが、そのどれも実行はしなかった。かわりに、けっして破ってはならない、このうえなく有益な人生の教訓を、続けて二十回、心のなかで繰りかえし唱えた。

 「断じて食べ物のために旅をしてはならない」

 単純かつ初歩的にして重要な教訓である。すべては身から出たさびだ。おまえはみずから進んで教訓を破ったのだ。何人も一回の食事のために一時間十分もかけて出かけていくべきではない。どんな美味しいといわれようと、そんなことは問題ではないのだ。一時間十分もかけて出かけていくような愚か者は、ペパローニもないピザ・ハウスに行きつくぐらいの罰を受けて当然なのだ。」

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心にクスッとおかしさとペーソスを醸し出す、ボブ・グリーンの筆致がすごい。
posted by Fukutake at 10:46| 日記

2018年06月25日

死に至る生

「わたしガンです」−ある精神科医の耐病記−
 頼藤和寛 文春新書 2001年

52p〜

 「…論語に「徳は孤ならず、必ず隣あり」とあるが、ガンも似たようなところがあって、どこかにできたのなら、その近所あるいは体内の別のどこかにもガンや前ガン状態があっても不思議ではない。要するに、ガンというのは何かの間違いで偶然ぽつりとできたデキモノというより、発ガンを許す体質や体調(その代表例は老化である)といった背景の問題を無視できない病態なのだ。発ガン物質や生活習慣が原因だとする素朴な図式を受け入れたとしても、何段階にもわたる遺伝子エラーが蓄積していかないと細胞はガン化しない。その上、遺伝子エラーを修正するメカニズムも故障していなければならない。それどころか健常者の体内でも毎日数百から数千ほどの細胞がガン化しているという。なぜ発病しないかというと、抗腫瘍免疫やその他の修復・防衛機能によってただちに排除ないし是正されてしまうかららしい。これらを総合すると、ガンは局所の病気であると同時に(転移などしなくても、最初から)全身の病いでもあるのだ。我が国や米国で数百万人もいるガン克服者の一部は、そのうち再発ではなく新発生した別のガンで亡くなることが予想されている。そうすると、若者のにきびや乳児の湿疹と同じで、できやすい者は結局できやすいのである。

 それなら予防すればよい、とは言うものの、これがそう簡単ではない。緑黄色野菜をたっぷり摂りさえすれば、煙草をやめさえすれば、あるいはストレスを避けさえすれば、ガンが予防できるといった単純図式は、そうであってほしいと願う人々が抱く都合の良い信念にすぎない。現に、野菜嫌いで愛煙家でストレスまみれなのに一向にガンにならない強運の人もいる。また我が国のガン予防十二カ条や米国お勧めのデザイナーフーズその他、疫学的に裏付けられている「ガンにならない食品・生活習慣」を完全に守ることは並大抵ではない。仮にそれらを徹底できたとしても、まるでその人の人生は単に「ガンにならないためだけに捧げられた一生」みたいなものになってしまう。これは実につまらない一生である。第一、それほどまでしてもガンになる確率を人為的にゼロにすることはできない。そもそも最大のリスク・ファクターは加齢なのである。人も知るように「生きていることは健康にわるい。」第二に、運よくガンにならなかったとしたところで、いずれ脳障害か心臓麻痺か事故か老衰で死ぬと言うことだけのことなのだ。」

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長生きは健康に毒?!
posted by Fukutake at 08:02| 日記

2018年06月21日

無限の未来

「宇宙の始まる前には何があったのか?」
 ローレンス・クラウス 著  青木薫 訳 文藝春秋 2013年

254p〜

 「もしもわれわれの住むこの宇宙のエネルギーが、無すなわち真空のエネルギーに支配されているなら、たしかにそんな陰鬱な未来になりそうだ。天は冷え切って、暗黒で空っぽの世界になるだろう。しかしじつは、見通しはいっそう暗い。空っぽの空間のエネルギーに支配された宇宙は、生命の未来にとっては最悪なのである。そのような宇宙では、いかなる文明もエネルギーが枯渇して、いずれは消滅せざるをえない。考えることもできないほど長い時間が経った後、何らかの量子ゆらぎ、または何らかの熱的ゆらぎによって、ふたたび生命が進化して繁栄するような、小さな領域が生じることもあるかもしれない。しかしそれもまた儚いものになるだろう。未来の宇宙は、果てしない謎をとくための手がかりを、何ひとつ含まないものになるだろう。
 宇宙の始まりに目を向けて、われわれを構成する物質が、時間の始まりのときに起こった何らかの量子的プロセスで生じたなら、それもいずれ消滅するのはほぼ確実だ。物理学は双方向に通行できる道であり。始まりと終わりはつながっている。はるかな未来に陽子と中性子は崩壊し、物質は消滅し、宇宙は最大限に単純で、対称性の高い状態に近くだろう。
 数学的には美しいのかもしれないが、そこには何の実質がない。エフェソスのヘラクレイトスは、これとは少し違う文脈で次のように述べた。「『神々と人間が争いをやめさえしたら!』とホメロスは言ったが、それは大きな間違いである。もしもその言葉どおりになったとしたら、万物は消滅するに違いない」。クリストファー・ヒチンスはそれを言い換えて、こう述べた。「涅槃は無である」

 いずれ宇宙は無に帰するというこの宇宙像は、もしかするともっとも極端なものになるかもしれない。ひも理論家の中には、複雑な数学的理論にもとづいて、われわれの宇宙のように、空っぽの空間に正のエネルギーが含まれている宇宙は、安定ではありえないと主張する者もいる。いずれ空間は崩壊して、真空のエネルギーが負であるような状態に落ち着くというのだ。そのときわれわれの宇宙は一点にまで縮み、始まったときのような、ぼんやりとした量子的な状態に戻るだろう。もしその議論が正しければ、われわれの宇宙は突然に消滅するだろう。
 この場合、「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」という問いに対する答えは、「存在するとはいっても、長くはない」ということになるだろう。」


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「………」
posted by Fukutake at 12:49| 日記