2018年05月28日

医者と患者

「医学に何ができるか」 ルイス・トマス    晶文社 1995年

20 医者が患者になったとき

266P〜

  「医学のなかで学ぶのがむずかしく、教えるのがさらにむずかしいことのひとつは、患者になった時の気持ちはどんなものかということである。昔、だれもが重い病気を経験するのがふつうだった時代には、たいていの医者も少なくともふたつみっつ自分で重病を経験していたので、その病気の患者の気もちはかなりよくわかっていた。二十世紀はじめに育った肺疾患の専門家には、自分が結核になったことからこの分野への興味をもった人が多い。リハビリテーション医学の指導者的人物にはポリオで不自由になった人もいた。この年代の医者はみな、肺炎やチフスを自分自身が直接経験しているか、そうでなければ身近な家族をひとりぐらいはこの病気でうしなっていた。
 いまでは、事情がずいぶんちがっている。致命的あるいはそれに近い病気は老人の病気だけといってよいくらいになってしまった。チフスにかかって、毎日死を目のまえにしながら六週間も八週間も危険な日々をすごしたあと、やっと切りぬけたときには人生を見る目が確実に変わり、まえよりはつよい性格になった自分を発見する、というような経験をすることはもうない。

 集中治療室の電子モニターや、ガンの化学療法薬、現在外科手術の離れわざ、複雑になるいっぽうの医療診断方法の動員など、重病に対処するためにできた技術は講義ノートや教科書でマスターしてからじっさいの患者の治療で修得するのであるが、このような治療を受けることによって患者がじっさいどんな気もちを経験するかについて多少なりともわかる医者の数はごく限られている。はしかや百日咳、水ぼうそうなどのワクチンのおかげで、またとくに連鎖状球菌を容易に制御できるようになったおかげで、幼児の伝染病さえほとんどみられなくなった。ちかごろの若い医者は、耳が痛いというのはどういうことかわからない。鼓膜穿刺が患者にとってどういうものかにいたっては、なおさらわからない。

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他人の痛みがわかるということ。
posted by Fukutake at 11:39| 日記

2018年05月21日

ガリレオへの判決文

「野に雁が飛ぶとき」キャンベル選集V ジョーゼフ・キャンベル 
 武舎るみ 訳 角川書店 1996年
その2

125p~

意味を持たない象徴

(異端審問宗教裁判所の枢機卿たちは次のような判決を書き残した)
 「フィレンツェの故ヴィンチェンツォ・ガリレイの息子である汝、ガリレオ、七十歳は、一六一五年、本検邪聖省に告訴された。それは、多くの者が説いている偽りの学説、すなわち太陽は世界の中心にあって動かず、地球そのまわりを一昼夜の周期で公転している、という説が真実であると主張したためである。また、前記の説を弟子に教えたこと、ドイツの数学者たちと、前記の学説について文通を続けたこと、太陽黒点に関する書簡を出版し、そのなかで前記の学説を展開したことも、告訴の理由である。さらに、汝の学説に対して、聖書の基づいた異議が頻繁に申し立てられたが、汝自身の解釈に従って聖書にもっともらしい説明をつけることにより、その異議に反論したことも同じく告訴の理由である。告訴の際、以前汝の弟子であった人物に宛てて汝が書いたと称する文書の写しが提出されたが、そのなかで、汝はコペルニクスの仮説に従い、聖書の真の意味と権威に反する数々の主張を盛り込んだ。したがって、(このせいなる法廷は、汝の以上の行為によって生じ、聖なる教義を傷つけ続けている混乱と悪影響に対して、法による禁止措置を講じたい所存であったが)教皇猊下と、万人のための至高の異端審問宗教裁判所の枢機卿にあらせられ、神聖かつ卓越した諸閣下との命により、検邪審問の神学者たちが、太陽の不動と地球の運動の二説について、以下のような評定を下した。
一、 太陽が世界の中心にあり、その位置を動かないとする説は不合理であり、聖書に明らかに反するため、正式に異端である。
二、 地球が世界の中心ではなく、不動ではなく、一昼夜の周期で動いているとする説も不合理であり、哲学的に見て誤りであり、神学的から考えると、ともかく完全に誤りである。

 従って、……われらが主イエズス・キリストと、最も栄光に満ちたその聖母マリアの最も神聖なる御名を唱えつつ、われわれは以下の最終判決を下さす……われわれはこう申し渡し、判決を下し、宣告する---「汝、前記のガリレオは……太陽が世界の中心にあり、東から西へ動いてはいないという学説、ならびに地球は動いており、世界の中心ではないという学説を信じ主張したかどによって本裁判所により著しく異端の嫌疑をかけられた。また、ある学説は、聖書に反すると宣言され、裁判所のよって最終的にそう裁定されたあとも、真である可能性があると主張し、支持することができるため、汝は、聖なる教会法と、その他の一般および特殊の法規において、前記の事項の違反者に対して命じられ告示されているあらゆる譴責と刑罰とを受けることになった」。そこで、もしも汝がわれわれの面前で、偽らぬ心と真の信仰心をもって、カトリックとローマカトリック教会に反する、前期の誤りと異説、ならびにその他すべての誤りと異説を宣誓のうえ放棄し、誤りだと認め、公に非難するならば、われわれは喜んで汝に無罪を申し渡すものである……」

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覆すのに400年かかりました。
posted by Fukutake at 11:33| 日記

2018年05月14日

消えゆく神話

「野に雁が飛ぶとき」キャンベル選集V ジョーゼフ・キャンベル 
 武舎るみ 訳 角川書店 1996年
その1

 「おとぎ話」

 38P〜

 「…民話や神話の「奇怪で不合理で不自然な」モチーフは、夢とヴィジョンの宝庫から引き出されてくる。こうしたイメージは夢のレベルでは、夢見ている人の心の全体的な状態を表す。しかし、詩人や預言者の手によって、個人レベルのゆがみが除かれた形で示されると、小宇宙である人間の霊的な規範を象徴する存在になる。形而上学的、心理学的、社会学的真理を表すイメージ言語から成る名言となるわけである。そして、この語彙は、原始的なレベルの文化を持つ社会、東洋や古代や中世の社会においては、熟慮され、多少とも理解されていた。それが突如意味を成さないものとなり、ばかげたことだと言われるようになったのは、ごく最近になってのことで、十八世紀の啓蒙運動以降のことに過ぎない。

 物語の起源と意味

 神話とは対照的に民話は娯楽のための物語である。物語を創り、話して聞かせる語り手の技術の甲乙は、聞き手がどの程度楽しめるかで決まる。この場合のモチーフは、神話の木から摘み取られることもあるが、作者の作話技術に神話的秩序があることは厳密に言えない。民話の作者の作品は最終的には、科学や社会学、心理学、形而上学ではなく芸術としてーとりわけ、識別可能な時代と国の個人が創り出した芸術としてー判断しなければならない。つまり、こう自問する必要があるのである。長年にわたってこれらの物語を作り上げてきた語り手たちにインスピレーションを与えたのは、技巧上のどのような原理だったのだろうか、と。

 ヨーロッパのおとぎ話のなかでとりわけすぐれたものを生み出した人々の遠い祖先とも言えるインド、ケルト民族、アラビア、中世の語りの達人達は、いずれは死ぬ運命にある事物を通して、なんとか永遠の存在の輝かしさを示そうとする技を実際に駆使した。そうした人々の作品の特色は、自然主義的ではなく超自然的な精密さであって、彼らの力は教育効果の面から見ると驚異的であった。われわれの目から見ると、このような技と形而上学にはほとんど違いがないように映るかもしれない。というのは、「形而上学的な」という言葉が示す意味は拡大されて、実証主義的な話のレベルに置き換えられないものすべてを含むようになったからである。しかし、ゴート人であれ、東洋人であれ、古代人であれ、トーテム制度の社会に属する人々であれ原始的なレベルの文化を持つ人々であれ、近代以前のタイプに属する人々は概して、超越的なエネルギーが空間と時間という形をとって作用することも当たり前のこととして受け取っていた。…」


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「おとぎ話の登場人物は、主としてその魅力ゆえに大事にされた。そのため、神々の王国は現代の精神という『酸』に溶かされてしまった…」
posted by Fukutake at 11:36| 日記