2018年05月21日

ガリレオへの判決文

「野に雁が飛ぶとき」キャンベル選集V ジョーゼフ・キャンベル 
 武舎るみ 訳 角川書店 1996年
その2

125p~

意味を持たない象徴

(異端審問宗教裁判所の枢機卿たちは次のような判決を書き残した)
 「フィレンツェの故ヴィンチェンツォ・ガリレイの息子である汝、ガリレオ、七十歳は、一六一五年、本検邪聖省に告訴された。それは、多くの者が説いている偽りの学説、すなわち太陽は世界の中心にあって動かず、地球そのまわりを一昼夜の周期で公転している、という説が真実であると主張したためである。また、前記の説を弟子に教えたこと、ドイツの数学者たちと、前記の学説について文通を続けたこと、太陽黒点に関する書簡を出版し、そのなかで前記の学説を展開したことも、告訴の理由である。さらに、汝の学説に対して、聖書の基づいた異議が頻繁に申し立てられたが、汝自身の解釈に従って聖書にもっともらしい説明をつけることにより、その異議に反論したことも同じく告訴の理由である。告訴の際、以前汝の弟子であった人物に宛てて汝が書いたと称する文書の写しが提出されたが、そのなかで、汝はコペルニクスの仮説に従い、聖書の真の意味と権威に反する数々の主張を盛り込んだ。したがって、(このせいなる法廷は、汝の以上の行為によって生じ、聖なる教義を傷つけ続けている混乱と悪影響に対して、法による禁止措置を講じたい所存であったが)教皇猊下と、万人のための至高の異端審問宗教裁判所の枢機卿にあらせられ、神聖かつ卓越した諸閣下との命により、検邪審問の神学者たちが、太陽の不動と地球の運動の二説について、以下のような評定を下した。
一、 太陽が世界の中心にあり、その位置を動かないとする説は不合理であり、聖書に明らかに反するため、正式に異端である。
二、 地球が世界の中心ではなく、不動ではなく、一昼夜の周期で動いているとする説も不合理であり、哲学的に見て誤りであり、神学的から考えると、ともかく完全に誤りである。

 従って、……われらが主イエズス・キリストと、最も栄光に満ちたその聖母マリアの最も神聖なる御名を唱えつつ、われわれは以下の最終判決を下さす……われわれはこう申し渡し、判決を下し、宣告する---「汝、前記のガリレオは……太陽が世界の中心にあり、東から西へ動いてはいないという学説、ならびに地球は動いており、世界の中心ではないという学説を信じ主張したかどによって本裁判所により著しく異端の嫌疑をかけられた。また、ある学説は、聖書に反すると宣言され、裁判所のよって最終的にそう裁定されたあとも、真である可能性があると主張し、支持することができるため、汝は、聖なる教会法と、その他の一般および特殊の法規において、前記の事項の違反者に対して命じられ告示されているあらゆる譴責と刑罰とを受けることになった」。そこで、もしも汝がわれわれの面前で、偽らぬ心と真の信仰心をもって、カトリックとローマカトリック教会に反する、前期の誤りと異説、ならびにその他すべての誤りと異説を宣誓のうえ放棄し、誤りだと認め、公に非難するならば、われわれは喜んで汝に無罪を申し渡すものである……」

----
覆すのに400年かかりました。
posted by Fukutake at 11:33| 日記

2018年05月14日

消えゆく神話

「野に雁が飛ぶとき」キャンベル選集V ジョーゼフ・キャンベル 
 武舎るみ 訳 角川書店 1996年
その1

 「おとぎ話」

 38P〜

 「…民話や神話の「奇怪で不合理で不自然な」モチーフは、夢とヴィジョンの宝庫から引き出されてくる。こうしたイメージは夢のレベルでは、夢見ている人の心の全体的な状態を表す。しかし、詩人や預言者の手によって、個人レベルのゆがみが除かれた形で示されると、小宇宙である人間の霊的な規範を象徴する存在になる。形而上学的、心理学的、社会学的真理を表すイメージ言語から成る名言となるわけである。そして、この語彙は、原始的なレベルの文化を持つ社会、東洋や古代や中世の社会においては、熟慮され、多少とも理解されていた。それが突如意味を成さないものとなり、ばかげたことだと言われるようになったのは、ごく最近になってのことで、十八世紀の啓蒙運動以降のことに過ぎない。

 物語の起源と意味

 神話とは対照的に民話は娯楽のための物語である。物語を創り、話して聞かせる語り手の技術の甲乙は、聞き手がどの程度楽しめるかで決まる。この場合のモチーフは、神話の木から摘み取られることもあるが、作者の作話技術に神話的秩序があることは厳密に言えない。民話の作者の作品は最終的には、科学や社会学、心理学、形而上学ではなく芸術としてーとりわけ、識別可能な時代と国の個人が創り出した芸術としてー判断しなければならない。つまり、こう自問する必要があるのである。長年にわたってこれらの物語を作り上げてきた語り手たちにインスピレーションを与えたのは、技巧上のどのような原理だったのだろうか、と。

 ヨーロッパのおとぎ話のなかでとりわけすぐれたものを生み出した人々の遠い祖先とも言えるインド、ケルト民族、アラビア、中世の語りの達人達は、いずれは死ぬ運命にある事物を通して、なんとか永遠の存在の輝かしさを示そうとする技を実際に駆使した。そうした人々の作品の特色は、自然主義的ではなく超自然的な精密さであって、彼らの力は教育効果の面から見ると驚異的であった。われわれの目から見ると、このような技と形而上学にはほとんど違いがないように映るかもしれない。というのは、「形而上学的な」という言葉が示す意味は拡大されて、実証主義的な話のレベルに置き換えられないものすべてを含むようになったからである。しかし、ゴート人であれ、東洋人であれ、古代人であれ、トーテム制度の社会に属する人々であれ原始的なレベルの文化を持つ人々であれ、近代以前のタイプに属する人々は概して、超越的なエネルギーが空間と時間という形をとって作用することも当たり前のこととして受け取っていた。…」


-----
「おとぎ話の登場人物は、主としてその魅力ゆえに大事にされた。そのため、神々の王国は現代の精神という『酸』に溶かされてしまった…」
posted by Fukutake at 11:36| 日記

2018年05月10日

その赤は同じか

「遺言」 養老孟司  
−これだけは言っておきたかった− 80歳の叡智がここに! 
 新潮新書 2017


116p〜

 「芸術作品の唯一性と深く関連した概念がある。それはクオリアである。クオリアを精細に論じると厄介なことになる。簡単に説明しようと思って、ウィキペディアを参照したら、エライことになった。説明の長いこと、長いこと。しょうがないから、詳しいことは茂木健一郎に聞いてくれ、というしかない。

 クオリアは英語の質(quality)と関連している。語源はラテン語である。言葉の上では、クオリアは感覚の与える質感のようなものを指す。ただしこの質感は、他人に感知できない。子どもの時に考えたことはないだろうか。私が見ている赤色を、友だちはどういう色として見ているのだろうか。ひょっとしたら、私の見ている青の感じで受け取っているかもしれない。

 この説明で即座にわかる人もいるだろうし、まったくわからないという人もいるかもしれない。学生の三分の一は、この話がわからない。そういう研究報告をした人もある。脳の回路が人によって違っているのかもしれない。
 ともあれ、人がなにかを感じる時、その感じそのものを他人が感知することはできない。患者さんが痛い、痛いと言っている時に、実際どう痛いのか、医者は体験できない。教師時代によくやったことだが、学生が「説明してください」という時に、男子学生だったら、「説明したら。陣痛がわかると思うか」と言ってやった覚えがある。

 現代社会のように、情報が溢れている中で育つと、すべては説明可能だといつの間にか信じ込む。少し意地が悪いと思ったけれど、私は言葉の限界についての無知を注意しただけである。…」

----
感覚は伝わらない。
posted by Fukutake at 09:20| 日記