2018年04月05日

真の保守とは

「蜃気楼の中へ」−遅ればせのアメリカ体験−  西部 邁 
 中公文庫 昭和60年

 「反進歩への旅」より
 210p〜

 「伝統主義といい保守主義といい、それらを旧套墨守として侮蔑するというのが進歩と革新の時代の通弊です。自分の来し方を振り返ってみても、既成の権威に楯突くことの少なくなかったようです。お前もその悪弊に染まっていたのだといわれてみれば反論は容易ではありません。ひとまず、保守するに価するような立派な伝統に出くわすのが難しかったからだ、と逃げを打ちたくなります。こうして、一呼吸おいておけば、伝統だ保守だと叫び立てる人に限って権威をかさにきて鼻持ちならぬ、と反論することもできそうです。もっと一般的にいえば、貴族の王朝は堕落するものだ、というのも一つの経験則だといえましょう。したがって、自分のうちにある反権威的な傾きを殊勝気に反省しようとなどという気は起こりません。そしてそれ以上に、いく度か立ててみた向かっ腹の対象はといえば、進歩と革新の権威にほかならなかったのですから、自分の求めていたのは真正の保守であり真正の伝統だったと言い募りたくなるわけです。
 ともかく、革新、進歩、成長あるいは変化といった言葉に当たるたびに眉に唾する癖がついてしまいました。僕がイギリスの片田舎で殊のほか落ち着きを感じることができるのは、村人たちにもこういう癖が共通しているやに見受けられるせいなのでしょう。日常の上辺だけをみれば、毎朝ミルク・ティにベーコンエッグズとトーストを食べ、男たちは付近の町へ仕事にでかけ、女たちは家を磨き上げお茶に誘い合い、男の子はサッカーに明け暮れ、女の子は親切や意地悪に離合集散に熱中しています。日曜日ともなれば、思春期にさしかかった少女たちが馬にまたがり、大人たちは庭造りに精を出します。そしてヴァカンスには車を駆ってスペインにでかけ、家族揃って日光浴です。こんな次第ですから、いったん何が保守だというのだと問い返されれば、具体的にはどういうこともないと認めざるをえません。あるのは「フォックストンの静かな日々」と名づけたくなるような平凡の連続であり、要するに目立つことは何もないのです。
 そして僕がこの村から保守の匂いを強く感じるのは、目立つことを避けるという人々の行動特性であるような気がします。保守の精神にとって、変化や成長の源泉であるいわゆるオリジナリティなどという代物は、恥ずべきものであり、猥褻ですらあるに相違ありません。ロンドンやエディンバラで街頭を曲がったとたんパンク・ルックの若者と不意に遇ったときに、僕は喩えようもない猥褻感を感じました。保守が変化や成長とよばれる事柄に対して抱くのは、それと類似した感情ではないでしょうか。
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実際私が生活した80年代のロンドン郊外の人々を活写しています。
posted by Fukutake at 09:23| 日記