2018年04月02日

忘れた過去との遭遇

「大人の本棚 懐手して宇宙見物」 寺田寅彦 池内了編 みすず書房
 2006年

 215p〜
「庭の追憶」より
(生まれ故郷熊本の自宅の庭を描いた絵が偶然上野の美術館にあると聞かされ、会場に出向き、思いもよらぬ、昔と遭遇した驚きを記す)

 「…『秋庭』という題で相当な対幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るも眩しくくらいなので、一見しただけではこれが自分の昔馴染みの庭だということが飲み込めなかった。

  生まれる前に別れたわが子に三十年ぶりに始めて巡り会ったという人があったとしたら、どんな心持ちがするものか、それは想像できないが、それといくらか似たものではないかと思われるような不思議な心持ちを抱いて、この絵の前に立ち尽くすのであった。

  この絵に対する今の自分の心持ちが、やはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔のわが家の庭が、次第次第に狂っていたレンズの焦点の合ってくるように、歴然と眼前に出現してくるのである。

  ことにありありと思い出されるのは、同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿の、今はとくの昔に亡き妻の事どもである。
 飛び石のそばに突兀(とくこつ)としてそびえた楠の木の梢に雨気を帯びた大きな星が一つ、いつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。その頃のそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も下女も下男も、みんなもう一人もこの世には残っていないのである。
 国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまご)いをした。い会場を出ると、爽やかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今更のように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉が今年の若葉によみがえるように、一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえってくるのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に、全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰ってこない。それでもまだしばらくの間は、生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像(ナハビルト)のようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば、世界中の芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
 こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへ降りて行くのであった。」

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なんとも言えない名文です。

posted by Fukutake at 11:34| 日記