2018年02月13日

西太后(1)

「中国文明の歴史 11」 中国のめざめ  宮崎 定一
 中公文庫 2000年

 西太后の人物(その1)

75p〜

 「政治家としての西太后は非凡な手腕を発揮した。もちろんそれは高い理想を掲げて邁進したわけではなく、遠い前途を洞察してあらかじめ備えを設けたというのでもない。太后はむしろ近視眼的であり、目前のことしか見えなかったが、それだけ現実の問題に対しては、あまり大きな誤診を犯さなかったのである。そしてそれだけのことでも、清朝末期の皇族中には人物が払底していて、肩を並べうる人物がいなかったのであった。
 同治年間はいわゆる同治中興と称せられ、太平天国の動乱の試練をへた人材が多く輩出したので、内外とも比較的無事であり、それが光緒帝の初年まで続いた。西太后は政治上ではよく人物を見抜く明があったと称せられる。とくに李鴻章を厚く信任した。その李鴻章が日清戦争の失敗を演じてから、不運な一連の事件が起こった。日清戦争はともとも李鴻章の本意ではなく、周囲に迫られてやむをえなかった結果とはいえ、かれはその責任によって左遷された。そのあとに起こったのが戊戌の新政であり、義和団の事件であった。光緒帝の戊戌新政は、その意図するところははなはだよかったが、実施の方法はまったく無準備で始め、無計画で推進し、側でみていてはらはらするほどでたらめのものであった。だから実際家の西太后が強権を発動したのもやむをえなかった。

 義和団事件を拡大させたのは西太后の大失敗であったが、これも大勢にひきずられてやむをえぬ事情があった。これがもし西太后でなかったならば、さらに事件が深刻化して底止するところをしらなかったかも知れなかった。太后が李鴻章を呼び戻して外国と講和させたのはせめてもの救いであった。

 西太后の散財は(頤和園の大理石の船の他、何と言っても)その陵墓であって、生前からあらゆる手段を尽して、あたかも守銭奴が蓄財に余念がないように、珍宝を程に入れては副葬品に指定しておいた。
 ところが、この定東陵が乾隆帝の裕陵とともに兵匪によって発掘されたのである。匪徒らは最も宝物の蔵せられていることを知って、この二陵だけを発掘したのであったが、はたしてかれらの推測は誤っていなかった。定東陵にはじつに莫大な財宝が副葬されていた。」(次回に続く)

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清朝末期の驚くべき断末魔
posted by Fukutake at 15:22| 日記