2017年12月27日

見巧者とは

「落葉籠(下)」 森 銑三 (小出昌洋 編) 中公文庫 2009年

 坂元 雪鳥

194P~
 坂元雪鳥能評全集
 「…能を見る機会には戦後恵まれないが、坂元雪鳥さんの能楽に関する著書の一二を読んで大変感心した。この序にと、「坂元雪鳥能評全集」の上下二巻をも通読したら、これはまたこれで実にいいものであった。
 第一に坂元氏の純粋な態度に打たれる。坂元氏は自分の眼で能を見て、思うがままを、率直に述べている。相手がどんな能楽者であろうと、おめず臆せず物がいってある。少しも萎縮したりしない。その反面、素人の能は素人の能として、それも丁寧に見て、素人の芸にはまた玄人も及ばない特別のよさのあることを認めている。そうした坂元氏の人間に好意がもたれる。坂元氏はもともと国学者で、その方面にもしたい仕事を持っていられたというが、その方面には纏まった業績というほどのものもなくて、この「能評全集」が同氏の第一のに挙ぐべき著作となってしまった。しかし氏がその一生を通じて、打込んで能を見て、これだけの能評を残して置かれたというのは、実に有意義なことだったと思わずにはいられない。

 万三郎の羽衣
 明治四十五年一月、梅若会の例会脳に、坂元氏は万三郎の「羽衣」を見て、その最上級の出来栄に、いい尽くされぬ満足感に浸り、こういう出来済ました能に、どこがよいなどと指摘することは不可能だといい、若草の萌ゆる円い山を、花の香のする春風が、静かに撫でて行く、そうした感じの能であった。要所要所を書留めはしたけれど、列挙するとなると、全部書かなくてはならない。『先づ我々が予想し得る出来栄の極致に達したものといへばそれでよい』といい、『この能が済むと、もう何物も見たくなくなった。六郎の望月は白頭と小書にあったにも拘らず、それも見捨てて帰ってしまった』という。後の能を見ないで帰ったというのは、いつまでも万三郎の「羽衣」の能の雰囲気に浸っていたかったのでもあるが、かような記述を読むと、幸福感を満喫してもうこれだけで十分だという坂元氏の気持ちが伝えられて、読む者までが嬉しくなる。」

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万三郎の能について、小林秀雄も『當麻』に書いてましたね。

posted by Fukutake at 15:44| 日記

2017年12月25日

種の寿命

「人類が知っていること すべての短い歴史(下)」 ビル・ブライソン 
楡井 浩一 訳 新潮文庫 2014年

 186p〜

 「過酷な環境に強いものの例にもれず、地衣類は生長が遅い。シャツのボタンほどの面積を埋め尽くすのに半世紀以上もかかることがある。そのため、デイビッド・アッテンボローは、地衣類がディナー用の大皿くらいの面積まで広がるには「数千年とまではいかなくても数百年はかかるだろう」と記している。これ以上に不活発な存在は想像しがたい。アッテンボローは、「地衣類はただそこにある。そして、この上なく単純なレベルの生命体でさえ、明らかに自己のためだけに発生するという感動的な事実を証明している」と付け加える。
 生命体とはただそこにあるもの、という考えかたは見過ごされがちだ。わたしたち人間は、生きることに意味を求めようとする。計画や野心や欲望を抱え、絶えず自分に与えられた生を堪能しようとしているのだ。しかし、地衣類にとって生命とはなんだろう? あらゆる点から見て、存続したい、生きたいという地衣類の衝動は、わたしたち人間と同じくらいーいや、おそらくはそれ以上にー強力だ。わたしなら、森の中の岩に生えた苔として何十年も過ごせと言われたら、きっと生きる意志を失う。しかし、地衣類は違う。事実上すべての生きとし生けるものと同じく、ほんの一瞬でも長く存在するために、艱難辛苦を乗り越えていく。簡単に言えば、命あるものはひたすら自己の存続を願う。しかしーここが興味深い点なのだがーだいたいにおいて、多くは望まない。
 (中略)
 四十五億年という歴史の中で、わたしたち人類の存在がいかに新しいものかを、さらに効果的に把握するためには、両腕をいっぱい伸ばして、その長さを地球の全歴史だと考えればよい。ジョン・マクヒィーの『盆地と山脈(Basin and Range)』によると、この尺度では、片手の指先からもう片方の手首までの距離が、先カンブリア時代に当たる。複雑な生命体はすべて、片手におさまる。『そして、爪の中目のやすりを一回かけただけで、人類の歴史は剥がれ落ちてしまう。』
(中略)
 「これまで地球に生まれた全生物種の99.99パーセントは現存していない。シカゴ大学のデイヴィッド・ラウブは、『まずひとつ言えることは、すべての種が絶滅するということだ』と言っている。複雑な生命体の場合、種の平均寿命はほんの四百万年ほどだ。これは人類が生きてきた年月にほぼ相当する。」

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そろそろ人類も…。
posted by Fukutake at 08:09| 日記

2017年12月21日

全てはつながっている

「鏡の伝説(TURBULENT MILLOR)」−カオス・フラクタル理論が自然を見る目を変えたー (その2)

 J.ブリックス+F.D.ピート (高安秀樹+高安美佐子 訳)ダイアモンド社
 1991年

全体論的視点
284p〜
 「『基本的には、すべての物事は一つです。物と物とを区別するような線を引くことは不可能なのです。私たちは、分類することを日常的に行っていますが、これは絶対的なものではありません』と彼女(遺伝学者バーバラ・マックリントック)は述べています。彼女がこのような一体感を持つようになったのは、ある部分(具体的には染色体)を細かく観察した結果でした。本来、彼女の研究は、還元主義的な情熱に支えられていたのですが、彼女は普通の還元主義者とは異なる視点を持っていました。
 『より詳しく研究を進めれば進めるほど、染色体が大きなものに感じてきました。あるとき、研究をしている自分自身が、外部にいるのではなく、そこの中にいるようにすら思えてきたのです。私自身が染色体の一部になったのです。』
 マックリントックは、老子などの哲人や、あの伝説の黄帝のように、還元主義と全体論のはざまに立ったのです。彼女のいう全体感は、<生命の感覚>であり、不確実性、相互関係、相互依存によって自然が成り立っているという直感です。細胞から個体、そして生態系にいたる生命の形態に潜む相互連帯性を求めるのです。『あらゆるものが結びついて一つになっているという認識がなければ、科学は単に、ばらばらになった自然、あるいは自然のほんの一部を見せてくれることしかできないのです』と彼女は言います。さらに彼女は次のように続けます。
 『私たちはこれまで、あまりにひどく環境を破壊し続けてきました。科学技術はよいものだと考えてきたからです。工業的なレベルになって、私たちの科学が浅はかなものであることのしっぺ返しがきたのです。本来、全体の動きを知ってからでなければ部分の動きの意味はわからないのに…私たちは、一部分だけに注目して、他の動きを見ることを忘れていたのです。全体の動きを見ようとしなかったのです』」

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地球自体が一種の生命体と捉える考え方でしょうか。
posted by Fukutake at 11:51| 日記