2017年11月27日

曖昧さとコンピュータ

「逆説の法則」 西成 活裕  新潮新書 2017年

第一章 世界は逆説に満ちている より

フレーム問題

 「将来社会で人工知能が汎用的に使われるためには、実はまだ解決しなければならない大きな課題がいくつか残っている。その一つに「フレーム問題」といわれるものがあり、実はこれが30年前の人工頭脳ブームが失敗した原因の一つであった。これは簡単にいえば、現実をどのような枠組み(フレーム)で見るか、を決めることであり、関係があるものと無いものを切り分ける、というタスクである。これはまさに物事の目的や意味を定めることに他ならない。コンピューターは、枠組みが決まった問題を解くのは得意だが、設計仕様から外れた問題を解けるほどまだ柔軟にできていない。

 例えば、部屋を掃除しておいて、と言われたら、我々ならば普通はさっと床を掃いたり、ゴミを捨てたり、あるいは時間があれば窓をふいたり、と臨機応変に対応できるだろう。特に何をすべきで何をすべきでないか、大抵の場合はいちいち相手に伝える必要もない。しかしコンピューターはこれらをすべて指定しないとまともに動かず、下手をすると、そのまま家全体に水を撒き散らすこともありうるのだ。

 実はすべきことは通常有限であるが、してはいけないことは無限にある。例えば窓を拭くときは傷がつかないように、とか、燃えないゴミは一緒に捨てない、とか、リストを書き出すときりがない。これは、法律の中に社会でしてはいけないことをすべて記述することはできないのと同じである。そして我々は無限の可能性の中から通常すぐに目的にあった行為をすることができるが、計算機にはそれが苦手である。仮に無限の可能性をもし入力できたとしても、それを検索するのは無限の時間がかかり、行動が停止してしまうだろう。もちろん人間もクレーム問題で停止してしまうことがあるが、我々は大抵の場合、不思議とこれをクリアしているように見える。そしてその根本にあるのが、かけがえのない、有限の命である人間の、自らの身体を守る、という大きな目的であろう。

 コンピューターにはこうした身体性は存在せず、ここが機械と生物の根本的な違いであると考えられる。…」

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人間的時間の不思議。
posted by Fukutake at 14:50| 日記

2017年11月20日

幻のインタヴュー

「告白」− 三島由紀夫 未公開インタビュー  講談社 2017年

(1970年(昭和45年)に行われたインタビューより)

52p〜

 「ジョン・ベスター(*):日本の憲法が偽善だとおっしゃったんですけど、…むしろインテリのことですか。

三島由紀夫:インテリのことですけど、つまり、なぜ憲法が偽善かというのは、僕はほかの新聞にも書きましたけど、ヤミ食糧取締法というのが戦後あったんです。そして、その法律のとおりにしていると死んじゃうんです。ある裁判官がその法律を一生懸命守っていたら、栄養失調で死んじゃったんですよ。それで新聞にでかでか出たんです。日本中全部でその法律を破っていたんです。ブラックマーケットからおイモを担いて生きていたんです。人間が生きるためには、その法律を破らなければならなかったんです。
 法律か死かという問題は、ソクラテス以来の一番本質的な問題だと思うんです。そうすると、日本の憲法を本当に文字どおりに理解すれば、日本人は絶対に死ぬほかないんです。つまり、自衛隊なんてあってはいけないんです。警察でもあってはいけないかもかもしれません。日本中、完全なオープンカントリーで何もなきゃ、なくてはいけないんです。つまり、日本で今やっていることは全部憲法違反です。僕はそう思いますよ。それをみんな現実として認めていますけど、政府のやっていることも、誰のやっていることも憲法違反です。ですから、死なないために我々は憲法を裏切っているわけですよ。
 そうすると、ヤミ取締法と同じで、法律というものがモラルをだんだんにむしばんでいくんです。我々は死ぬのは嫌だから、仕方がないから抜け道で生きていくんだ。それはソクラテスの死と反対でしょう。ソクラテスのような死に方をしたのがその裁判官で、偉い人ですね。だけど、人間はみんなそうやって死ぬわけにいかないんです。生きなきゃならない。だから、今の憲法では、僕は正当防衛理論が成り立つと思うんですよ。死なないために今の憲法の字句をうまくごまかして自衛隊を持ち、いろんなことをやって日本は存立しているんですね。日本はそういう形で何とか形をつけているんです。でも、それはいけないことだと僕は思うんです。人間のモラルをむしばむんです。
 理想は理想で、僕は立派だと思う。僕は、憲法九条というのが全部いけないと言っているんじゃないんです。つまり、人類が戦争をしないということは立派なことです。平和を守るということは立派なことです。ですが、第二項がいけないでしょう。第二項がアメリカ占領軍が念押しの規定をしているんですよ。…そうやって日本人は二十何年間、ごまかしごまかし生きてきた。これから先もまたごまかして生きて行こうと思ってる…」

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(*)ジョン・ベスター(ウィキペディアより)
「1945年、第二次世界大戦末期に、イギリス海軍の日本語通訳養成に応募し、日本語を学び始める[2]。終戦後、ロンドン大学東洋アフリカ研究所(SOAS)の学部、大学院で学び、1953年に仏教研究を志して来日[3]。やがて大学で教鞭を執ったり、朝日新聞社の英文季刊誌『ジャパン・クォータリー』の翻訳などに関わりながら、日本文学の英語への翻訳を手がけるようになり、1970年代半ば以降は翻訳に専念する[2]。この間、井伏鱒二『黒い雨』、大江健三郎『万延元年のフットボール』ほか、多くの日本近現代文学の作品を英訳した。1980年には、阿川弘之の『山本五十六』を英訳した『The Reluctant Admiral』で日本翻訳出版文化賞を受賞した 1990年、三島由紀夫『三熊野詣』の英訳と長年にわたる日本文学の翻訳紹介活動に対して第1回野間文芸翻訳賞を受賞した」

posted by Fukutake at 08:29| 日記

2017年11月16日

何をあくせく

「徒然草」イラスト古典全訳 橋本 武 日栄社 平成1年

第三十八段より 52p〜

 「…不朽の名声を末長く後世に残すというのは、誰にとっても望ましいことと考えられるであろう。しかしながら、高位高官であるというだけですぐれた人とは言えまい。なぜなら、愚かで何のとりえもない人でも、家柄の高いところに生まれ、時運に乗ずれば高位にのぼり、贅沢三昧に明け暮れるものもある。それとは逆に、文句なしにすぐれた賢人・聖人でも、みずから低い地位に甘んじており、時運に恵まれないままに生涯を終えてしまう例もまた多い。だから、ただいちずに高位高官を望むのも、物欲を望むのに次いで馬鹿げている。
 高位高官は不可としても、頭脳と人格とについては一世に卓絶しているという名誉も残したいものであるが、よくよく考えてみれば、名誉を愛するのは結局は人の評判を喜ぶにすぎないことである。誉める人もそしる人もいずれもこの世にとどまるものではなく、それを伝え聞く人だって、これまた同様にたちまちこの世から姿を消すであろう。こんなわけだから、誰に気がねすることもないし、誰に知ってもらいたいと願う必要もない。それに、名誉はまた非難を生み出すもとである。だから、死後の名誉が残ってみたところで何の利益もない。ゆえに、これを得ようと願うのも、高位高官を望むのに次いで馬鹿げている。」

原文
 「…埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生まれ、時に逢へば、高き位に昇り、奢(おごり)を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる。また、多し。偏に高き官(つかさ)・位を望むも、次に愚かなり。
 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、そしる人、共に世に止まらず。伝え聞かん人、またすみやかに去るべし。誰にか知られん事を願はん。誉はまたそしりの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。」
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posted by Fukutake at 08:43| 日記