2017年10月30日

脳のクセ!?

「かくて行動経済学は生まれけり」 マイケル・ルイス  渡会 圭子 訳 
『FACTA』主筆 阿部 重夫(解説) 文藝春秋 2017年
(その1)

「ゲシュタルト心理学」

p75~
 「ゲシュタルト派は、外部からの刺激と、それで生じる人間の感覚との間には、はっきりとした関連はないことを実証した。さまざまな不思議な形で、脳がそこに介入しているのだ。ダニエル(カーネマン)が特に強い印象を受けたのは、ゲシュタルト心理学の研究者たちが、脳の不思議な内部の働きを、読者が実際に経験し、感じられるように説明していたことだった。

 『晴れた夜に空を見上げると、いくつかの星がまとまった形で、周囲から切り離されて見える。たとえばカシオペア座、あるいは北斗七星。遠い過去から人々はそれぞれの星を一つのまとまりとして見てきた。そして今の子どもたちも、何も教えられなくても同じまとまりとして星を見ている。』

 ゲシュタルト心理学の中心にあるのは、行動主義者たちがあえて無視していた問題だった。すなわち、脳はどのように意味を生み出すのか、という問題である。感覚によって集められた断片を、どのように一貫した現実の像にまとめるのか。その像は世界が脳に押しつけるというよりも、むしろ脳が世界に押し付けているように思えることが多いのはなぜなのか。人はどうやってたくさんの記憶のかけらを、筋の通った一つの物語にまとめているのだろうか。目にしたものに対する理解が、そのときの状況によって変わってしまうのはなぜなのか。ヨーロッパでユダヤ人殲滅をもくろむ政党が権力の座に就いたとき、事態の深刻さを受け止めて逃亡したユダヤ人と、とどまって虐殺されたユダヤ人がいたのはなぜか。こうした疑問が、ダニエルを心理学の道へと進ませた。それはどんなに賢いラットでも答えられない問題だ。もし答えがあるとすれば、人間の頭の中でしか見つからない。」
 
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posted by Fukutake at 08:04| 日記

2017年10月23日

日々楽しむべし

「イラスト古典全訳 徒然草」 第九十三段 橋本 武 
日栄社 平成1年

 第九十三段(後段)
 
 毎日を楽しもう
 「また、“かたへなる者”が語をついで言うには、「だから、人間たるもの、死を憎むなら当然生を愛さなければならぬ。無事に命を保っている喜びを日日に楽しまないではいられまい。ところが、愚かな人はこの存命の楽しみを意識することなく、ご苦労さまにも外の楽しみを追い求め、この存命という貴重な財産のことを考慮することなく、危険千万にも他の財宝をむさぼり求めるにおいては、人間の欲望は満たされることがない。生きている間に存命の楽しみを味わうことなく、死に臨んで死を恐れるなら、こんな道理に合わぬ話はない。人が誰も生を楽しまないのは、死を恐れていないためである。いや、死を恐れないのではなく、死の迫っていることを考えてみようとしていないのである。もしまた、生とか死とかの差別相などは、すでに超越しているという人があるなら、それはそれで、悟りの境地に到達したものと言わざるを得まい。」と言うと、これを聞く人はますます嘲りを加えた。」


(原文)
 「また云く、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理(ことわり)あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死(しょうじ)の相(そう)にあづからずといはば、実(まこと)の理を得たりといふべし」と言ふに、人いよいよ嘲る。

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「かたへなる人」とは兼好自身でしょうね。
posted by Fukutake at 10:11| 日記

2017年10月16日

明治日本の幻影

「日本瞥見記 上」 小泉 八雲 著  平井 呈一 訳 
  恒文社 1975年

「盆おどり」

  「…膝のあたりにぴったりまつわりついている日本の着物は、あの妙なぶらしゃらした大きな袖と、着物をきゅっと締めているあの幅の広い、世にも珍しい帯とがなければ、おそらく、ギリシャかエトルリアの工匠の描いた絵にならって意匠を考えたものと見えるかもしれない。やがて、もういちど太鼓がドンと鳴ると、それを合図に、いよいよ演技がはじまった。これは、なんとも、ことばではとうてい描写することのできない、なにか想像を絶した夢幻的な舞踊−いや、ひとつの驚異であった。

 まず、同勢がいっせいに右足を一歩前に、草履を地べたから上げないで、そのままするりと出す。それと同時に、妙にふうわりとしたしぐさで、にこにこ笑いながら、軽くお辞儀をするような腰つきをして、両手を右にのばす。つぎに、出した右足をうしろに引いて、また両手を振り、お辞儀のようなしぐさをくりかえす。

 そうして、白い手が絶えず波のように揃って揺れ動く。まるでなにか呪文でもひねりだすように、白い手は輪の内と外へ、かわるがわるに、あるいは手のひらを上に、あるいは下に向けながら、しなりしなりと動くのである。
 じっとそれを見ていると、まるで水がキラキラ光って流れているのを一所懸命に見つめているような、− なんだか催眠術にでもかかっているような感じがしてくる。
 …
 わたくしはその時、ふと、こんなことを考えた。− 自分はいま、遠い遠い太古のものを見ているのだ。東洋人の生活記録にさえ残っていない太初
のもの、おそらくは薄明の神代時代のもの、あの神変不可思議な神々の時代のものを、自分はいま見ているのだ。無量の歳月のあいだに、意味のことごとく忘れられてしまった動作のひとつの象徴を見ているのだ、と。」

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posted by Fukutake at 08:24| 日記