2017年09月27日

ロゴス!

「ロゴスとイデア」(1) 田中美知太郎 文春学藝ライブラリー 
文藝春秋 2014年

149p〜

 「ロゴスという言葉と一緒にいつも私が思い出すのは、プラトンが『パイドン』の中に述べている次のような考えである。すなわち「ものの真相を見きわめようとする者は、直接に事物そのものを見てはいけない。たとえば日蝕の観測に太陽を直視する者は往々にして眼を損ねる。われわれは水その他の物質に太陽に姿を映して、間接にこれを見るようにしなければならない。ちょうどこれと同じように、事物を直接に耳目で捉えようとする時、われわれの精神はかえって盲目となって何ものも見ることが出来なくなる。われわれはむしろ事物に直面することを避けて、これをロゴスの中に見るようにしなければならない。われわれはかくすることによってかえって事物の真を捉えることが出来る」という考え方である。

 ロゴスを事物の陰に過ぎないと考える人々は、…ものは直接に見るだけで充分だと考えている。そしてこの考えは、事物が見られるだけで十分に捉えられていて、ものはちょうど見られた通りにあるという信念にもとづいている。別な言葉でいえば、人々は先ず間違いなくものを見たと信じているのである。そして事物はまさに見られたとおりであり、自分は事物の真を把握し、事物を知っているのだと信じているのである。しかしこのような信念には何らの保証もない。彼等が果たして事物を見たかどうかということさえ疑わしい。彼等はただ見たと信じているに過ぎない。そして「ものを見ることが即ちものを知ることである」というような考えは、プラトンが『テアイテトス』の前半において、まさに許すべからざる思想として徹底的批判を加えたところのものなのである。

 …われわれの見るところのものは事物の一部分に過ぎないから、これを事物の全体と信じてはならないのである。ものはまた他のようにも見られ得ると考えなければならない。しかしながらわれわれは、ものを自分の眼でしか見ることができない。また従って、自分の見たものと他人が見たものとをおのおのその一面とする事物の全体を直接に見るということは出来ないわけである。われわれは自分の見たと信ずるものを、自分の見ることの出来ない他の多くの面をもつ、もっと別なものの単なる一面であると考える時、既にわれわれは直接に見るだけのものでは充分でないと考えなければならなくなっているのである。かくてわれわれは自分がただ直接に見ているだけのものを越えなければならなくなる。そしてかく越えさせるものがすなわちロゴスなのである。」

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見たことが真実であるという確信の誤り、危うさ。
posted by Fukutake at 14:44| 日記

2017年09月25日

人間の心理は難しい。

「交通事故はなぜなくならないか」−リスク行動の心理学−
ジェラルド・J・S・ワイルド (芳賀 繁 訳) 新曜社
(その1)

分析なき直感は誤った結論を導く

2p〜
 「大勢の人がおかす重大なリスクについての統計資料や研究論文を読むと、最初はちょっとびっくりするようなデータがたくさん見つかるだろう。たとえば、喫煙が心臓や肺のさまざまな疾病や早死にに関連していること、禁煙すればこれらの疾病にかかる可能性が減ることは誰にでも知っている。だから、読者は、医者に禁煙を勧められて実際に禁煙した人が心臓疾病や肺疾患にかかる事例は少ないと予想するだろうし、その予想は正しい。禁煙したグループでは、実際これらの疾病の罹患率は低いのである。

 ところが、もし読者がこのグループの死亡率も低くなると予想するなら大間違いだ。禁煙群と統制群を比較したある研究によると禁煙群の方が少し短いという結果が得られているのである!

 運転するときシートベルトを着用したほうが着用しないよりも衝突時の生存率が高いことは、誰でも知っている。だから、シートベルト着用を法的に強制すればシートベルト着用率が上がり、国の一人あたりの交通事故死亡率は下がると信じたくなるだろう。
 また同様に、衝突安全性の高い自動車を製造し、運転を誤っても事故にはつながりにくい道路を建設すれば、交通安全に役立つと期待するだろう。しかし、これもまた、そうはなっていない。人間は間違いをおかす動物である。私たちの知覚と推論は謝りやすいのだ。

 たぶん、次の三段論法を聞いたことがあるだろう。
      人間は皆いつかは死ぬ。
      ソクラテスは人間だ。
      ゆえに、ソクラテスはいつかは死ぬ。

三行目の結論は最初の二行から導かれる。では、次の論理はどうだろう?

      多くの事故で、衝突前に車はスリップしている。
      アンチ・ロック・ブレーキ(ABS)はスリップの確率を低減する。
ゆえに、ABSを装備すると事故件数が低減する。

  交差点事故の多くは、クルマ同士が直角に衝突している。
      交通信号は直角に衝突する事例を減少させる。
  ゆえに、信号を設置すると交差点事故の件数が減少する。

 一見ソクラテスの論法と似ているから、後の二つの結論も正しいと考えたくなる。しかし、この類似がくせもので、後の二つは間違いなのだ。
 しかし、多くの人がこの罠にはまる。そして、間違った結論が人びとの社会的態度や先入観にピッタリ合っていると、さらに多くの人が騙される。」


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えっ!て思いますね。
posted by Fukutake at 08:24| 日記

2017年09月19日

夜は異界だった

「絵巻物に見る 日本庶民生活誌」 宮本 常一 著  
中公新書 1981年

中世の庶民の世界

210p〜
 百鬼夜行の世界
 「われわれが妖怪変化についていろいろの連想をたくましくした日は久しい。白昼の明るい光の中で異変を見ることは少なかったが、日が落ちて暗くなると、周囲はまったく物を見分けることがむずかしくなる。すると、いろいろの変化や妖怪がその闇の中を右往左往しはじめると考えた。私の子供のころまでは、日が落ちて薄暗くなり、相手の顔の見分けにくくなる時刻を逢魔が時といい、『逢魔が時に外を歩いてだれかに行き合ったとき、必ず挨拶をするものだ。もし、相手が返事をしないときは怪しいものだと思ってよい』と教えられたものである。朝晩のほんのわずか光があるときは、とくに注意が必要だったもので、夜明けの、まだ夜の闇のあるときのをカワタレというのは『彼は誰』の意味であり、夕方の光のわずかに残っているときをタソガレというのは『誰ぞ彼』からきた言葉だといわれた。そして、もし夜の闇を歩くときは、必ず火をかざしてゆかねばならないとされた。隣近所へゆくのならともかくとして、少し離れたところへ行くのなら、火は必ずかざすものとしており、無燈火は厳しく戒められたものであった。

 もともと日本では、この世にあるすべてのものに魂があり、夜半闇の中で耳を澄ますと、万象の話している声が聞こえるものだと古老たちから聞かされた。そしてそのような考え方は古くからのものであり、画家たちはそれをまた絵にした。『是害房絵詞』『土蜘蛛草子』を初め、『十二類絵巻』『百鬼夜行絵巻』『化物草子』などはその範疇に属するものであり、そのような絵はとくに室町時代、すなわち十五世紀に入ってから多く描かれるようになった。その理由の一つには、そのころからお伽草子の発達が見られる。これは平安時代の説話文学とはやや趣を異にするものだが、民間に行われた物語風の話を筆録したものであり、中には奈良絵とよばれる挿絵をともなったものもあった。『福富草子』もお伽草子の一つであり、お伽草子のなかには、『天狗の内裏』『酒呑童子』『藤袋草子』『魚鳥平家』『鴉鷺(あろ)合戦物語』『弥兵衛鼠』『をこぜ』など異類の物語が少なくない。そういう物語や、そういう物語によるイメージの絵画化されたものが異類の絵巻になったのであろう。』

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posted by Fukutake at 09:11| 日記