2017年05月22日

酒席の醜態

「徒然草」吉田兼好 百七十五段 

 現代語訳 「イラスト古典全訳 徒然草」橋本武 日栄社

 「… ぶざまな酔態は他人事として見ているだけでもいやでたまらない。思慮深そうな様子で、日ごろから奥ゆかしいと感じていた人も、なんの分別もなくげらげらと笑い騒ぎ、べらべらとしゃべり、烏帽子はひん曲がり、紐はばらけ、裾を高くまくり上げて脛をにょっきり見せるといったふうで、こういう、慎みを忘れた様子を見ると、これがいつもの人と同一人だとは信じられない。女の酔っぱらったのは、額髪を大きなゼスチャーで掻きはらったり、臆面もなく顔をつき出してげらげら笑ったり、人が杯を持っているその手につかまったりというていたらく。教養のない人間は、さかなをつかんで他人の口に押しつけて食べさせたり、自分でもそれを食べたりしているが、まことにぶざまである。ありったけのどら声をはり上げて、めいめいが謡ったり舞ったりしているかと思えば、年老いた法師がその場に呼び出されて来て、黒くきたない半ストリップのスタイルで、正視に堪えないほど身体をくねらせて舞っているのを、ヤンヤと面白がって見る人までが、虫酸が走るほどいとわしく、憎々しく感じられる。
 そうかと思うとまた、自分がいかに素晴らしい人間であるかということを、そばに聞いているだけでもたまらぬほど、くどくどと他人に言い聞かせたり、あるいは酔ったまぎれに愚痴をこぼして泣き出したり、下賤の者は、口汚くののしりあったり、喧嘩したりのありさま、呆れてものも言えぬほどであり、恐ろしくもある。恐ろしくも情けないことばかり演じて、あげくのはてはいけないという物を手当たり次第にひったくって縁から落ちたり、帰りの馬や車から落ちてとんでもない粗相をしでかしてしまう。乗り物にも乗らぬ身分の者は、都大路をよろめき歩いて、土塀や門の下などに向かって、口に出して言えないようなことをやたらにし散らかし、そうかと思えば、年をとって袈裟をかけた法師が、お供の少年の肩によりかかって、呂律の回らぬことをくどくどと言いながら、よろよろとしているなど、いずれを見ても、あまりにもあわれなザマで、見るに絶えない。…」

(原文)
 「…人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひののしり、詞(ことば)多く、烏帽子歪み、紐外し、脛(はぎ)高く掲げて、用意なき気色、日来(ひごろ)の人とも覚えず。女は、額髪晴れからに掻きやり、まばゆからず、顔うちささげてうち笑日、盃持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴とりて、口にさし当て、自らも食ひたる、様あし。声の限り出(いだ)して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出(いだ)されて、黒く穢き身を肩抜着て、目も当てられず(*)すじりたるを、興じ見る人さへうとまく、憎し。…」

(*)すじりたるを:身をくねらせて舞っているのを。
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耳が痛いです。

posted by Fukutake at 08:20| 日記

2017年05月15日

お追従者の排除

「君主論」マキャベリ 池田 廉 訳 中公文庫 昭和五十年

君主は、お追従者をどのようにしたら避けたらよいか

131p~

 「ここできわめて重大な問題、つまり、君主の避けがたいある過失について、ふれておきたい。この過失は、君主がよほど思慮に富む人か、あるいはりっぱな人選をしていなければ、まぬがれるのは困難なものである。すなわち、宮廷にざらにみかけるお追従者についてである。
 人間は、自分のことになるとまことに身びいきなものである。そこで、その点で人の言うなりにだまされてしまうから、このペスト禍から身を守るのはむずかしい。しかも、汚染から身を守ろうとして、あまく見くびられる危険性もでてくる。というのは、そもそもへつらいから身を守る手段は、ただあなたが真実を告げられても、決して怒るものではないことを人々にわからせる以外にはないからである。ところが、そこで、だれもかもあなたに向かって真実を話していいということになると、あなたへの尊敬の念は失われてしまうものである。
 こう考えてみると、思慮の深い君主のとるべき道は、第三の道でなければならない。すなわち、君主は、国内から賢人たちを選びだして、この人たちだけにあなたに真実を語る自由を認めること、しかも、それは君主が下問する問題にだけかぎって、ほかのことは許さないようにすることである。君主は、そこで諸般のことがらにつき、彼らにたずね、彼らの意見を聞き、そののち、ひとりで自分なりに決断をくださなくてはならない。しかも、こうした助言全体に対しても、また、個々の助言者に対しても、率直に話せば話すほど歓迎されることがめいめいに十分くみとれるように、対処しなくてはいけない。また、彼ら以外にはだれのことばも聞かず、君主自身が決断したことは実行し、その決断に対しては固執して貫かなければいけない。これとはちがったやり方をするのでは、きっと尾追従者におとしいれられ、雑多な意見の出るたびに自分の意見をひるがえして、君主自身に対する人々の評価を落とす結果となる。」


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posted by Fukutake at 11:43| 日記

2017年05月08日

現実と幻

「精神のエネルギー」 ベルクソン 宇波 彰 訳 
第三文明社 レグスルス文庫 1992年

三 <生者の幻> と <心霊研究>

「テレパシーと偶然の一致」より

 p82〜

 「… しばらく前のことですが、私が出席した或る社交界の集まりで、みなさんが研究している現象が話題になりました。そこにはフランスの最もすぐれた医学者のひとりがいましたが、その方はフランスの最もすぐれた科学者のひとりでもありました。話を注意深く聞いてから、彼はおよそ次のようなことを言いました。<あなた方の言われることはすべて私にとってたいへん関心があります。しかし私はみなさんが結論を出す前に考え直すようにお願いしたいのです。私もまた異常な事実を知っています。そして私はその事実が本当であることを保証します。というのは、それを私に話したのはたいへん知性のある女性で、彼女のことばを私は絶対に信じているからです。この女性の夫は士官でしたが、或る局地戦で戦死しました。ところが、その夫が倒れた瞬間に、彼女はその情景を幻で見たのです。それはあらゆる点で現実と一致するはっきりとした幻視でした。おそらくみなさんは、彼女自身がそうしたように、そこには千里眼かテレパシーといったものがあった結論されるでしょう。しかし、みなさんが忘れていることがひとつだけあります。つまり、夫が元気なのに、死んでしまったか死にかけている夢を見る妻は大勢いるということです。幻で見たものが現実と一致するばあいだけを注意して、そうでないばあいは考慮されないのです。調べて見るならば、幻と現実と一致が偶然の作用の結果であることがわかるでしょう。>
 会話はよくわからない方向にそれて行きました。そして、哲学的な議論を始めることは問題になりませんでした。それにふさわしい場所でもなく、時間もなかったのです。しかし、テーブルを立ったとき、話をよく聞いていたたいへん若い女性が、私のところへ来て次のように言いました。<先ほどのあの先生の考えはまちがっているように思えます。あの先生の考えがどこで違っているのかはわかりませんが、違っているはずです。>そうです。誤りがあったのです。若い女性の方が正しく、まちがっていたのはすぐれた科学者の方でした。彼は現象のなかの具体的なものに対して目を閉じていたのです。彼は次のように推論しました。<夢や幻覚によって家族の者の死か危篤の状態が知らされるとき、それは本当か誤りであり、そのひとは死ぬか死なないかである。したがって、幻が真であるならば、それが偶然の結果でないことを確かめるためには、<本当のばあい>と<誤りのばあい>の数を比較しなければならない。>彼は自分の推論が置換によっていることがわかりませんでした。つまり彼は、一定の時と場所で、だれそれという兵士たちに囲まれてその士官が倒れたという、具体的で生きた情景の描写を<女性は真実のなかにいたのであって、誤りのなかにいたのではない。>という、無味乾燥で抽象的な考え方に置き換えたのです。
(略)
 つまりその女性が見た場面、彼女から遠いところの、きわめて複雑な情景のそのままの再現である場面を無視することで成り立っています。」

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1913年5月28日、ロンドンの心霊研究会での講演
posted by Fukutake at 08:46| 日記