2016年07月25日

われわれは自然の一部だ

「時を超える神話」ジョーゼフ•キャンベル 飛田 茂雄 訳
(キャンベル選集1)角川書店 1996年

35p〜

1855年頃、シアトル市の名の由来となったシアトル酋長がおこなったスピーチ

 「ワシントンの大統領は『おまえたちの土地を買いたい』と言ってきた。しかし、空や土地をどうして売ったり買ったりできるのだろう。その考えはわれわれにとって奇妙なものだ。もしわれわれが大きな空を持たないからといって、あるいはきらめく水をもたないからといって、そんなものをどうして金で買えるのだろう。この大地のどの部分も私の同胞(はらから)にとっては神聖なものなのだ。きらきら光る松葉の一本一本も。どの砂浜も。暗い林のどの霧も。どの草原も。羽をうならせている虫の一匹一匹も。みな、私の同胞の思い出と経験のなかで神聖なものなのだ。」

 われわれは、自分の血管に血が流れているのを知っているように、木々のなかに樹液がながれていることを知っている。われわれは大地の一部であり、大地はわれわれの一部だ。香り高い花々はわれわれの姉妹だ。クマ、鹿、偉大なタカ。彼らはわれわれの兄弟だ。岩山の頂き、草原の露、ポニーの体の温かさ、そして人間。みな同じ家族なのだ。
(中略)
 あなた方は、子供たちに、われわれが自分の子供たちに教えてきたのと同じことを教えるつもりがあるのだろうか。大地がわれわれの母だということを。大地に降りかかるものは大地の息子たちみんなに降りかかることを。われわれは知っている、大地は人間のものではなく、人間が大地のものだということを。
(中略)
 われわれが土地の一部であるように、あなた方も土地の一部なのだ。大地はわれわれにとって貴重なものだ。それはあなた方にとっても貴重なものだ。われわれはひとつのことを知っている。神はひとりしかいない。どんな人間も、レッドマンであろうとホワイトマンであろうと、区別することはできない。何と言っても、われわれはみな兄弟なのだ。」

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真実の言葉。
posted by Fukutake at 08:06| 日記

2016年07月19日

「ひとはなぜ戦争をするのか」

「ひとはなぜ戦争をするのか」 A.アインシュタイン/S. フロイト 
浅見省吾 訳 講談社学術文庫(2016)

以下は同書の養老孟司氏による解説より抜粋

p73〜
 「今はイスラム世界からテロが発生しているように見える。テロを『政治的』と見なせば、イスラム教がどうのこうのという話になる。でもそれが違うということは、多くのイスラム教徒自身がいうことであり、そもそもISがイスラム原理主義を標榜すること自体がいわば「古い」のである。テロとイスラムを結合するのは、古い社会システムからの見方である。そうではなくて、新しい社会システムと自然発生的な古い社会システムの相克がテロの基底ではないか。私はむしろそう思っている。石油に振り回されてきた中近東で相克が極端化しているのである。個人番号にせよ、すべての乗客をテロ容疑者と見なす空港にせよ、新しいシステムは個人に対して新たな強制をかける。そこになにかの理不尽さを感じるのは、私だけではないであろう。すべての人にそれを強制することによって、利益を受けるのは誰なのか。それはあなた自身だと、新しいシステムはいう。ところがいわれているほうの私たちは、どうもそんな気がしていない。石油に振り回されてきたアラブ世界にしてみれば、その違和感はもっと徹底的なはずである。

 新しいシステムが成立しつつあるとき、それに参加しなければなにか不利益を被る。以前通り生きているのに、外部の都合でなぜか不利益を被ってしまう。あるいは不利益を被る感じがする。ではそれに抵抗する方策があるか。新しいシステムが包括的、普遍的であればあるほど、抜け道がない。だからテロになるのであろう。
 そう思えば、現代のテロとは、新しいシステムに対するレジスタンス、抵抗と見なすことができる。テロがアルゴリズム的社会に対する抵抗だとすると、これは簡単になくならない。じつは私はそう思っている、メディアはテロを政治問題と解釈するが、(中略)政治というシステムに見切りをつけたゆえの行動を政治的に解決することはできないはずである。世界の首脳が集まって、テロを撲滅するという。私は全く信じていない。むしろテロが存在することによって、政治の仮想的な重要性が高まるから、政治家や官僚はテロ対策をいう。一種のマッチポンプといってもいい。政治がアルゴリズム的システム化のほうに無意識的であれ強く引きずられる世界では、抵抗勢力が発生する。それが現代の戦争であり、つまりテロだというのが、私の貧しい結論である。


ご彗眼脱帽です。
posted by Fukutake at 13:39| 日記

2016年07月11日

老醜晒すべからず

「徒然草」岩波文庫

第百五十一段より

「或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行く末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。

(現代語訳:
「イラスト古典全訳 徒然草」橋本武

「ある人が言うには、五十の年になるまで上手の域に達しないような芸は、思い切って捨てるがよい。これからも奮起して稽古を続けるだけの将来性もない。老人のすることは人も気の毒になって笑うこともできない。それをいいことにして大勢の人の中に出て、同じようにやっているのを見ても好感がもてず見苦しい。だいたい五十の年にもなれば、手のかかることはすべて避け、心身共にゆとりをもった暮らし方をするのが、見た目にもおだやかで望ましいことである。世俗のことに関係して生涯を暮らすのは最低の愚か者である。知りたいと思うようなことがあったら尋ね聞いてもよいが、その概略のことがわかったらそれ以上は追求しようとはせず、不審な点がなくなったという程度に止めておくのがよい。それも、はじめっから何も知りたがることのないままに止めておくことができるなら、それにこしたことはないのである。

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下愚の自分を言われているようです。
posted by Fukutake at 08:24| 日記