2016年02月24日

ナマコと人間

「人間にとって寿命とはなにか」本川達雄 著 角川新書 2016

生物多様性の大切さ

p48より
 「北海道の牛乳も、牧場でのんびり草をはんでいる牛からのものではなく、暖房の効いた牛舎の中で輸入飼料を与えられた牛から搾乳機でしぼりとったものです。
 農作物といえども、太陽の恵みですくすく育ったというような牧歌的なものではなく、いわばエネルギーのバケモノ、石油などのエネルギーが形を変えた「工業製品」なのです。
 そういう作り方をしなければ、都市部のこれだけの人口を養えません。私たちが豊かな食生活をしているということは、莫大なエネルギーを使っているということです。
 もちろん食生活だけではありません。私たちは機械に取り囲まれた暮らしをしています。暑さも寒さも気にしなくていいし、欲しい物も情報も即座に手に入ります。行きたいところにすぐ行けます。この不自由のない生活は、機械によって可能になっているのであり、機械は作るのにも動かすにも膨大なエネルギーを使います。人類はエネルギーをどしどし使って地上に天国を築き上げようとしました。
 ところが、天国への道だと思っていたものが、実は、地獄への道だったかもしれないと思わせる出来事が東日本大震災でした。エネルギーを大量に使って天国を目指そうという生き方は大変にあやういものであり、今後とも成り立っていくかどうかは非常に疑問です。」

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間違いの無い鉄論である。ただ、これまでの生活を変えることをどう納得させるか、どこまで実行出来るかで、これからの日本の世界のいや人類の未来が決まりますね。
posted by Fukutake at 09:48| 日記

2016年02月17日

追悼 オリヴァー•サックス先生

「道程」On the Move - A Life オリヴァー•サックス 著 大田直子訳
早川書房(2015)

p402より
スティーブン•ジェイ•グールドと議論する
 「博物学と科学史に対する深い愛情に通じ合うものがあったのは、スティーブン•ジェイ•グールドだ。
 私は彼の『個体発生と系統発生』(仁木帝都•渡辺政隆訳、工作社)や毎月『ナチュラル•ヒストリー』誌に掲載されていた記事のほとんどを読んでいた。とくに、一九八九年の『ワンダフル•ライフ』(渡辺政隆訳、ハヤカワノンフィクション文庫)が気に入っている。どんな動植物の種にも降りかかりうる純然たる運−幸運と悪運の両方−と、偶然が進化に果たす役割のとてつもない大きさを実感させる本だ。彼が書いているように、もし進化を「やり直す」ことができるなら、そのたびにまったくちがう結果になることはまちがいない。ホモ•サピエンスは特定の偶然性が組み合わさった結果であり、それで最終的に私たちが生まれたのだ。彼はこれを「すばらしい偶然」(訳注*グールド『フルハウス』ハヤカワノンフィクション文庫の渡辺政隆氏の訳を引用)と言っている。
 私はグールドの進化論にとても興奮し、イギリスの新聞から一九九〇年にいちばん気に入った本を訊かれたとき、『ワンダフル•ライフ』を選び、五億年以上前の「カンブリア爆発」で生まれた(カナディアン•ロッキーのバージェス頁岩(けつがん)に見事に保存されていた)驚くほど多種多様な生命のかたちを、さらにそのうちのどれだけ多くが競争や災難、あるいは単なる不運に屈したかを、彼は生き生きと描いていると評した。
 スティーブはこの小さな書評を見て、ありがたくも献辞入りの本を送ってくれた。その献辞によるとこの本は、私が自分の脳炎後遺症患者について記述していたある種の不確実性、本質的な予測不能性の「地質学バージョン」だという。私が礼状を送ると、彼は独特のエネルギーと元気とスタイルに満ちた返事をくれた。その始まりはこうだ。

 拝啓 サックス先生
  あなたから手紙をいただいて、うれしく思いました。あこがれの識者が自分の作品を楽しんでくれたと知ることほど大きな喜びは、この世にめったにないでしょう。何か共通の意識があるのに、どう考えてもつながりはまったくない。私たちを含む複数の人間が、偶発性の理論に根ざした共通の目標に向かって取り組んでいると私は確信しています。あなたの症例研究の成果はまちがいなく、神経学に関するエーデルマンの考え、カオス理論全般、南北戦争についてのマクファーソンの考え、そして私自身が集めた生命史に関する情報とぴったり合っています。もちろん、偶発性そのものはけっして目新しいものではありません。むしろ、このテーマは一般に科学ではない(「単なる歴史」)とか、もっとひどい話ですが、非科学的の後見役、さもなくばそうした立場が新規まきなおしをはかる足場と見なされてきました。重要なのは偶発性を強調することではなく、「個々の存在は還元不能なものだ」という考え方にもとづく、純粋な科学の中心テーマとしてあつかうことです。偶発性とは科学に対立するものではなく、自然法則を検討する際には当然前提として考慮されるべき、所与の筆頭であると見なすべきなのです。

ほかのいくつかのテーマについて論じたあと、彼はこう締めくくっている。

 おもしろいことに、長年会いたいと思っていた人とコンタクトをとると、その人と話しあいたいことがいたるところに見えてくるものです。
                               敬具
                   スティーブン•ジェイ•グールド
(後略)

才能は才能を知ると言いますが、読んでいて羨ましくなる交流ですね。
posted by Fukutake at 11:48| 日記

2016年02月10日

三島由紀夫 再び

「三島由紀夫の言葉 人間の性」佐藤秀明編 新潮新書 2015.11

いかにも三島由紀夫の口吻が伝わってくると感じた文章を本書からご紹介します。


 「男というのは動物ではない、原理ですよ。普通男というと動物だと思っているんだ。女から言うと、男ってペニスですからね。あの人、大きいとか、小さいとか、それは女から見た男で、女から見た男を、いまの世間は大体男だと思っているんだろうがね。ところが、男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう原理を守らなくちゃならないでしょう。」(石原慎太郎との対談)


「明る日起こす時刻を、厨房の黒板に書いておくのが私の習慣だが、快晴なら何時、曇りなら何時と二通り書いておき、快晴なら一時間早く起こしてもらって、日光浴をする。
 これは家人には全く理解できない。日光浴は健康のためであろうが、寝不足は不健康のもとである。どうして寝不足を犯してまで、日光浴をするのであるか?
 私に言わせれば、健康はもとより大切だが、健康に見えるということはもっと大切だから、そうするのである。これは私のみの倫理ではなく、あの「葉隠」」の根本倫理である。」(週刊新潮)


 「行動とは、自分のうちの力が一定の軌跡を描いて目的へ突進する姿であるあら、それはあたかも疾走する鹿がいかに美しても、鹿自体には何ら美が感じられないのとおなじである。およそ美しいものには自分の美しさを感じる暇がないというのがほんとうのところであろう。自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、美がその本来の純粋な形をとるとも言える。」(行動学入門)



 「現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミとした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代はいつかは愛想をつかし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の趣味(グウ)は、どんな人でも必ず洗練へ向かって進むものだからだ。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。」(日本の文学2 森鴎外(一)解説)

久々に読んで気持ちよかったです。
posted by Fukutake at 11:40| 日記