2016年01月27日

三島由紀夫 真の日本文化を守るとは

「ミシマの警告−保守を偽装するB層の害毒」適菜 収 (講談社α新書)
2015

文中(69p)、三島由紀夫の言葉より、

 「今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、というのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、われわれは日本につかまれている。だから私は、日本語を大切にする。ことばを失ったら、日本人は魂を失うことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変えよう、などと言った文学者があったとは、驚くにたえたことである。
 低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生まれるが、こういう劣等感から生まれた不自然な過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを卒業していると考えている。ただ、無言の自信をもって、偉ぶりもしないで、ドスンと構えていればいいのである。そうすれば、向こうからあいさつにやってくる。貫禄というものは、からいばりでつくるものではない。
 そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を造り出し、すべて美の観点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがいない。できぬことはない。かつて日本人は一度そういうものをもっていたのである。(「日本への信条」より)

しかし、日本は崩れ続ける。そうして次のことばを残して、「ミシマ」は自刃するのである。(本文123pより)

 「われわれは戦後の日本が、経済繁栄にうつつを抜かし、国の大本(おおもと)を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んで行くのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜(けが)してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」(「檄」)

日本の現在の悲劇がここに見事に活写されてる。
posted by Fukutake at 08:34| 日記

2016年01月20日

 おながれ

「徒然草」

第百五十八段(全文)

 「盃の底を捨つる事は、いかが心得たる」と、或人の尋ねさせ給ひしに、「凝当(ぎやとう)と申し侍れば、底に凝(こ)りたるを捨つるにや候ふらん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道(ぎよだう)なり。流れを残して、口の附きたる所をすすぐなり」とぞ仰(おほ)せられし。」

「イラスト古典全訳 徒然草」橋本武

「自分で飲んだ杯を人にさす時、杯の底に少し残したのを捨てることは、どういう意味か心得ているか。」とある方がお尋ねになった時に、「それを凝当と申しておりますので、杯の底にたまったのを捨てるということでございましょうか。」と申し上げたところ、「そうではない。それは魚道ということだ。底に少量を残して、自分の口のついた所を洗い清める意味なのだ。」と仰せられた。

知りませんでした。
posted by Fukutake at 10:33| 日記

2016年01月13日

徒然草 百十二段

「イラスト古典全訳 徒然草」橋本 武 
日栄社(平成1年)

第百十二段 後半より
「世渡りをしていく上での社交的儀礼は、どれ一つとして無視できるものではない。世間の習慣が無視できないからといって、そのすべてに従っていたのでは、やりたいと思うことも多く、体を酷使することになり、気持ちの上にも余裕がなくなり、一生はつまらぬ雑用に追い回され、義理立てすることに費やされて、空しく終わってしまうことであろう。日は暮れ前途は遥かに遠い。しかるに、我が命はすでに活力を失い、道につまずいて進み得ないありさまとなった。かくなる上は一切の俗縁を断ち切って、仏道に専念すべき時である。今となっては信義も守るまい。礼儀も気にかけまい。諸縁放下の我が決意の理解できない人は、この私を狂人だと言いたければ言え、正気の沙汰ではない、人間性の喪失だと思いたければ思うがいい。いくら悪口を言っても苦にすることはない。かりに誉めたとしてもそんな言葉を聞き入れることもない。」

(原文)
 「人間の儀式、いづれの事か去り難(がた)からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)もなく、一生は雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、途(みち)通し。吾が生既に蹉跎(さだ)たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、情けなしとも思へ。毀(そし)るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。」
posted by Fukutake at 08:14| 日記