2015年11月25日

中国史 その3(終わり)

「中国史 下」宮崎市定 著 岩波全書 1978年

第4篇 最近世史 より

554p〜
 「…孫文の場合に限らず、彼に先行する康有為もそうであったが、中国人はヨーロッパの文化を輸入するに当たって、決してそれを生のままに紹介しようとせず、これを自己の身体で消化した上で、自己のものとして発表するのを常とする。
(中略)
 この点が日本とは甚だ異なっている。日本では西洋事物を輸入するには、原産地証明付きの直訳体が尊重される。明治期には新しい学説には必ず、ベーコン氏曰くとか、ニュートン氏曰くとかを付けないと尊重されないのが通常であった。明治時代は従来の伝統が断絶した時代であり、古いものは古いが故に殊更に低く評価された。いわゆる文明開化とは、西洋一辺倒、欧米崇拝を意味した。この傾向は現今まで続いて来ている。
 併し私は、それだから悪い、と言うのではない。凡そ事物は一長一短である。日本は国を挙げて欧米を崇拝したればこそ、東洋諸国に魁けて、いわゆる近代化を急速に成し遂げたのである。もし古い伝統に執着していてはこれは不可能であったに違いない。そしてこの熱意があったればこそ、西洋文化の長所を、ある点までは深く探ることができた。客観的に見て客観的に見て西洋文化に優れた所がある以上、正直にその美点を認めることは、後進国自身にとって有利なことでもあった。
 日本が開国に踏み切った頃は、まだまだ世界は人種差別の甚だしい時代であった。その実情は到底今日からは想像できない。その間に立って日本は我を忘れて欧化に専念した甲斐あって、何時の間にか準白人の第一号と認められたのである。この待遇を受けるまでに、どれだけ日本が大きな犠牲を払ったかについて、他の非白人は全く考えても見ないであろう。ただ少数のインド人を除いては、である。
 併しながら実際には、準白人第一号の出現は決して他の東洋人に無関係でははなかったのである。近頃漸く人種平等が観念的には世界で普く承認され、次第に実績も上がりつつある。併しこれは、現実に準白人が出現したという実績があってのことである。この実績がなければ、人種平等の原則の樹立さえ覚束なく、もし原則が認められてもそれは全くの空文に過ぎなかったに違いない。ヴェルサイユ平和会議の席上で、日本が提出した人種平等案が葬り去られたのは、そんなに古い昔のことではなかったのだ。こういうことを歴史の概説書に書く人は外にないであろうが、私は歴史家として、一番大事なことを書かずにはおれない義務を感ずる。何故かと言えば、ヨーロッパ人に任しておけば誰も書く筈はないからである。
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頭を垂れて謹聴致しました。
posted by Fukutake at 10:39| 日記

2015年11月18日

中国史 つづき

「中国史 下」宮崎市定 著 岩波全書 1978年

小説のように読める中国史。

宋(北宋)は、執権 蔡京の間に、政治が大きく乱れた。

136pより
 「世論の形成に決定的な役割を果すのは知識階級、官僚群である。蔡京はその動向にも細心な注意を払った。官僚間で人気を得るには、彼らが最も欲するもの、つまり官位を惜しみもなく与えるに如くはない。と言っても官位に限りがある筈だから、すぐには要求に応ぜられない。そこで官制改革を行ない、宰相の名を変え、太師、太傅、太保を三公として真の宰相とし、少師、少傅、少保を三少と称して副宰相とし、何れも定員を定めなかった。こうして官制の嵩上げをして新しいポストを造り、これを順次に配分した。自らは最高の太師であるが外に童貫(宦官)ともう一人、太傅は四人、太保は十一人でその筆頭が蔡収(息子)である三公合わせて十八人、三少に至っては数知れず、という豪華さであった。おういう官職に対して、正規の俸給が支払われるのはもちろんであるが、その外にも種々の格外の賜与が振るまわれた。これが豊亨豫大の積極策たる所以で、官爵財物を視ること糞土の如し、と称された。
 これでは日の当たる部分はインフレ景気に酔うことが出来るが、日の当たらぬ部分はみじめな経済恐慌の波をかぶって呻吟しなければならないのだ。併し果たして彼等には、こういう跛行景気に対して抗議する方法がなかったのだろうか。それは実に大いにある。まず最初は秘密結社に流れこんで、塩などの禁制品の密売買をすることである。そして機会をうかがって、どこかに叛乱の火の手でも上がった時には、すぐそれに参加して仇討する手を考える。もし歴史的必然ということがあれば、それはこのような因果関係のことである。賢いようでも蔡京はそこを考えるだけの明察が欠けていた。狡知は畢竟、拙愚には如かないのだ。彼が太師の筆頭として位、人臣を極め、飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていた時、因果応報の理がすぐそこに、落とし穴を構えて待っているとは、誰が考えついたであろうか。
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posted by Fukutake at 09:05| 日記

2015年11月11日

中国通史その1

「中国史(上)」宮崎市定 著 岩波全書 1977年

史学の泰斗、かく語りき

(歴史は人と共に)
 「歴史家の研究はその人自身の生き方の一面であるが、特に過去の整理に重点を置くものである。そして現在と思ったことも、一瞬にして忽ち過去に変わってしまう。こういう際に歴史を志す者は、他の人よりも一層、現実の社会の動きに鋭く対応し、観察して、印象を深めておくことが必要である。現実の問題として体験し、把握し、理解し、整理したことは、やがて何物にも代え難い貴重な史料になるからである。或はこんなことは、特に取上げて注意するまでもなく、たとえ歴史家でなくとも、大ていの人は既に実行していることなのかも知れない。言いかえれば、老成者はそのまま一種の史料なのであって、近頃の若者は、ともすれば老齢の故に老齢者を侮る気風がもしあったとしたならば、それは大きな誤りだと言わなければならない。
 私個人の経験を持出すのは場違いかも知れないが、私は今世紀の初めに生まれたので、第一次世界大戦の頃からは既に有史時代に入っており、孫文が最後の活動の頃から後は、事柄によっては、ある程度確実な記憶を持っている。 
 一九二七年、蒋介石の北伐軍が南京を占領した際、配下の共産軍が日本•英国•米国の租界に侵入し居留民に暴行を加えた。いわゆる南京事件なるものである。これに対して、英•米の軍艦は揚子江中より城内に砲撃を加えて報復したが、日本軍艦は現場に居あわせながら行動を共にしなかった。然るに近時、中国で出版された歴史には、日本をも連ねて砲撃の仲間入りをさせているそうで、日本の若い学者たちの多くは、又その説を信じ、そのまま自著に転載したりする者がある。私はこれを見て不審に思い、学生に検討を依頼したところ、更に確実な根本史料に当って見ると、果たせるかな、私の方が誤っていないことが明らかとなった。単に事実がどうという問題ばかりではない。戦後は物事の考え方が戦前とはすっかり変わってきて、悪いことは何でも日本ということになったらしいが、本当は必ずしもそうではないのである。特に戦争などというものは、一方だけが絶対に悪いということは殆どあり得ない。寧ろ問題はどちらが、より悪かったかという点に落付くものと私は思う。概して言えばより強い方が、より悪かった場合が多いようである。」
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posted by Fukutake at 09:51| 日記