2017年06月26日

労働の尊厳

「人工知能と21世紀の資本主義」サイバー空間と新自由主義
 本山美彦 著 明石書店 2015年

リテラシー無視の未来のサイバー空間

 「(アラン)ケイは、すでに一九六〇年代からワイヤレスのネットワークを構想していた。時計型のウエアラブルインターネット機器によって、人々がユビキタス(いつでも、どこでも、誰でも)状態を楽しみ、世界の人々が交流できる社会を創り出すべきだと主張していた。
 ところが現在、ITの発達によって、情報の受け手側は本を読み、文を書くということをしなくなった。これは退行であると、ケイはインタビューで嘆いた。
 米国の多くの学校は、子供がグーグルで何かを見つけてコピーをすると、それで学んでいると思っている。それに対してケイは、子供がそれについての作文を書かない限り、学んだことにはならないと主張している。作文は思考を組織化する。単に博物館の展示物を集めても思考能力を高めることにはならない。しかし、ほとんどの学校はその違いが分かっていない。
 理想的未来は、人々が今日よりも、よりよく考える社会でなければならない。だが、残念なことに、ありそうなことは、人々がよりよく考えない、しかもそのことに気付かない社会の到来である。
 必要なことは、科学的な本を読む習慣を子供のときから身に付けさせる教育である。現在の先進国でさえ、科学者とまともな会話ができる成人、つまり科学的リテラシーを持つ成人は五パーセント未満でしかない。ほとんどの成人が科学的リテラシーを持っていない。科学的リテラシーとは、科学の本を読んで、その考えをほぼ理解でき、科学者とそれについての発展的会話もできる能力である。
 大人を変えるのは難しい。しかし、子供は、ある程度変わることができる。少数の創造的な人がいるだけだったら、それは民主主義にとって破滅的である。
 そのように語ったあと、ケイは次の言葉でインタビューを締めくくっている。人は、自分が誤っているとはなかなか認識できない。さらに、人は十万年もの間、世界が完璧なものだと思い込んできた。生存競争の激しさのせいで、世界が完璧ではないかもしれないなどと考えつく暇はなかった。現代的意味での科学はまだ四〇〇年の歴史しかない。人があらゆるものを疑う習慣を獲得するには、まだまだ長い時間がかかるであろうと。」

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労働(勉学)は苦役か?喜びか?
posted by Fukutake at 08:27| 日記

2017年06月19日

延命の是非

「死すべき定め」死にゆく人に何ができるか アトゥール・ガワンデ 
原井 宏明 訳 みすず書房 2016年

勇気 244p〜

 「… 延命の目的の外側からの人工的な装置を外す権利を与えることと、内側からの自然な死の過程を中断させる権利を与えることの間の区別を一貫性のある哲学に基づかせるという難題に私たちは向き合うようになった。
 この議論の根本には、私たちがもっとも恐れる過ちがあるー苦痛を引き延ばしてしまう過ち・大切な命を縮めてしまう過ちだ。医療者は健康な人が自殺しないようにする、なせなら精神的な苦しみはたいてい一時的なものだと見ているからだ。援助すれば、経験する自己とは違うものの見方を記憶する自己が後でしてくれるだろうと医療者は信じているーそして実際、自殺から救われた人のうちごく一部だけが自殺を再度、試みるー最終的には大半が生きていて良かったと述べる。しかし、これから苦しみが増すだけだとわかっている末期患者に対して、同情せずにいられるのは氷のような心の持ち主だけだ。

 同時に一方で、人の死を早めるのを積極的に助けることが医療行為の一部になったときに何が起こるかを考えると恐ろしい。この権利の濫用についてはさほど心配しないが、これに依存してしまうことは心配している。
(中略)
 …(自殺幇助が合法であるような制度下では)制度の運用には周囲の文化が必然的に影響する。たとえばオランダでは自殺幇助の制度が何十年も存在していて、その間に深刻な反対運動にあうことはなく、この制度の利用が相当に伸びている。しかし、二〇一二年で三五人のうち一人のオランダ人が自分が死ぬ前に自殺幇助を求めているという統計は、自殺幇助制度の成功を示す数字ではない。むしろ、失敗を示す数字である。医療者の究極の目標とは、あれこれ言っても結局のところ、よい死を迎えさせることではなく、今際の際までよい生を送らせることなのだ。

 確かに、今際の際の苦痛は避けがたく耐え難いときがある。悲惨な状況を終わらせる援助も必要かも知れない。もし、そういう機会があるならば、私ならこうした薬の処方を苦しむ患者に出せるようにする法律に賛成だろう。患者の約半数は出された処方を使わない。必要など思ったときは、自分でコントロールできると患者に知らせるだけでよい。しかし、この権利ゆえに医療者が病者の生活の改善を怠るようになったとしたら、それは社会全体にダメージを与えたことになってしまう。生命幇助は自殺幇助よりはるかに難しいことだが、それがもつ可能性ははるかに大きい。

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「よい生を今際の際まで送らせる……」
posted by Fukutake at 12:34| 日記

2017年06月12日

京都と自然

「京都の壁」 養老孟司 PHP 京都しあわせ倶楽部 2017年


鴨川と『方丈記』 197p〜
 「京都の鴨川と重なるのが鴨長明の『方丈記』です。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」で始まる鎌倉時代の随筆です。
 現代風に訳すと、「行く川の流れは絶えることがなくて、しかももとの水と同じではない。流れが滞っているところに浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では生じて、長い間、同じであり続ける例はない。」
 三つ目の文章は「世の中にある人とすみかと、またかくの如し」です。つまり、人間も鴨川と同じですよと喝破しています。それは生物学では、物質の代謝がはっきりするまでわからなかったことです。人の体は七年ですべての分子が入れ替わっていますが、みなさん、そんなことは考えていないでしょう。でも鴨長明は知っていたのです。「あなただって鴨川と同じだ。ものを食べているのだから、食べたものが体の中に入って体をつくっている」とわかっていたのです。そして「あなたはそこにいつもいるけれど、実は中身は入れ替わっているのだ」と言っています。「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」とも言っていますから、街もまた、同じだと書いています。これは相当に深い哲学です。

 これがそのまま、あの時代に初めて意識された考え方だろうといえるのは、『平家物語』の冒頭の同じだからです。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。まさに諸行無常、すべてのものは移り変わるということが、『方丈記』と『平家物語』には共通しています。諸行無常とは、移りゆく時の流れの中で栄枯盛衰を実際に見た人が感じるもの。おもしろいのはその後の日本人が、「それでは、移り変わらないものは何だ」ということをあまり考えてこなかったということです。」

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長い時間をかけて諸行無常を体験してきた街、京都。
posted by Fukutake at 13:23| 日記