2022年05月26日

肝のすわった若者

「十訓抄」新編 日本古典文学全集 小学館

上巻 一ノ四十一 藤原盛重 p8〜

 「肥後守藤原盛重は周防の国の民の子であった。六条右大臣源顕房公の御家来で、何とかいった人物が、周防の国へ目代として下向した際、ある時に、まだ子供であった盛重を見かけて、面魂(つらだましい)のとてもしっかりした者のように見えたので、引き取って、かわいがって育てていたのである。京都に戻ってから、お供に連れて、右大臣源顕房公のお邸へおうかがいした。その南面に大変大きい梅の木があって、供人どもは、「梅の実をとろう」などといって、小石をたくさん投げつけていた。「あの者どもを捕まえろ」と、ご主人が御簾の中からおっしゃっられたので、みんなクモの子を散らすように、逃げていってしまった。

 その中で、一人の童(わらわ)だけが、木のもとにそっと隠れて、ゆっくりと歩いていこうとした。「ずいぶん落ち着いて、何事もなかったかのように振舞う者であるなあ」と顕房公は感心されて、人を呼んで、「これこれの物を着ている小童は、誰の供人か」とお尋ねになった。しかし、主人がどう思うかを気遣って、なかなか答えなかった。強いてお尋ねになるので、だまっていることもできず、「これこれの者の童でございます」とお答えしたので、すぐ主人を呼び寄せて。「その童を参らせよ」とおっしゃっられたので、顕房公に差し上げたのだった。

 顕房公は、盛重をとてもかわいがって、お使いになっていたが、だんだん大きくなるにつれ、心遣い、思慮ともに深く、文句のない立派な男へと成長していった。常に御前で召し使われていたのだが、ある早朝に手水を持って、御前に参上してきたので、おっしゃられることには、「あの車宿りの棟に、烏が二羽とまっているが、一羽の烏の頭は白く見える。間違いないと思えるが」と、嘘のことをつくりあげて、お聞きになった。盛重はじっと見てから、「それに間違いございません」とお答え申し上げたので、「本当に利口者だ。世間で立派に通用する者になるに違いない」と思って、白河院に、この盛重を差し上げたということである。…」

(原文)
 「肥後守盛重は周防の百姓の子なり。六条右大臣の御家人なにがしとかや、かの国の目代にて、下りたるに、ついでありて、かの小童にてあるを見るに、魂有りげなりければ、よび取りて、いとほしみけるを、京に上りてのち、供に具して、大臣の御もとに参りたりけるに、南面の梅の木の大きなるがるを、「梅とらむ」とて、人の供の者ども、あまた礫(つぶて)にて打ちけるを、主(あるじ)の「あやつ、とらえよ」と、御簾の内よりいひ出し給ひたれば、蜘蛛の子を吹き散らすやうに、逃げにけり。
 その中に童一人、木の本にやをら立ち隠れて、さし歩みて行きけるを、「優にも、さりげなく、もてなすかな」とおぼして、人を召して、「しかしかの物着たる小童、たが供の者ぞ」と尋ね給ひければ、主の思はむことをはばかりて、とみに申さざりけれど、しひて問ひ給ふに、力なくて、「それがしの童にこそ」と申しけり。すなはち、主を召して、「その童、参らせよ」と仰せられければ、参らせけり。
 いとほしみて、使い給ふに、ねびまさるままに*、心ばせ、思ひはかりぞ深く、わりなき*者なりける。つねに前に召し使ひ給ふに、あるつとめて、手水持ちて参りたる、仰せに、「かの車宿の棟に、烏二つ居たるが、一つの烏、頭の白きと見ゆるは、僻事(ひがごと)か」と、なきことをつくリテ、問ひ給ひけるに、つくづくとまぼりて、「しかさま*に候ふ、と見給ふ」と申しければ、「いかにもうるせき者なり。世にあらむずる者なり」とて、白河院に進(まゐ)らせられるとぞ。」

ねびまさるままに* 大人になっていく。
わりなき* 大変優れている。
しかさま* そのとおり。

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盛重の豪胆、利発、俊敏さ。
posted by Fukutake at 08:08| 日記

思想界のドンキホーテ

「Kotoba」 コトバ13号 (創刊3周年記念号) 2013年秋号

京都から考える 佐伯啓思 p23〜

 「失敗を運命づけられた京都学派
 西田哲学の基本的立場というのは、西欧的な主体というものを消して、「無」に近づいていくという点に求められます。そしてこの「無の思想」に、西洋思想を突破する日本の思想の可能性を見たのが「日本の世界史的使命」を唱えた京都学派でした。

 単純化していうならば、日本的な「無の思想」は「有」から出発します。「有」を求める思想は。結局、自由を求める闘争に帰着し、それは力によって利益を奪い合う戦争をもたらしてしまう。同時に、過剰な「有」=「自由」のなかで、人々はニヒリズムの混乱に陥ってしまう。自由を当然のこととして認識し、自由そのものに至高の価値としての実感がなくなってしまい、生きる目標が失われるからです。このように、「有」から出発するかぎり、精神的危機は免れないとひとまず言えるでしょう。

 それに対して脱主体的ともいえる「無の思想」は、「有」を求めないで、多様な現実をそのまま受け止めることができる。「有」の世界は勝つか負けるかという線引きが不可避であり、その決着をつけなければならないのに対し、「無」が根底にある日本の思想は、相手が弱かろうが、自分と立場が異なろうが、その現実を受け止めることができる。それは多様なものを含んだ「一」を可能とする。矛盾したものを矛盾したものとして統合できる。
 だから、この「無の思想」を持った日本が、世界史の表舞台に出て行き、新しい世界秩序を作っていかなければならないというのが京都学派の主張でした。

 しかし、そうやって無の思想を引っ提げて日本が出ていこうとする場所は、西洋が作り出した、主体と主体がぶつかり合う「有の思想」の戦場です。そんな場所で「主体はありません」と言ったところで、新しい世界秩序を作れるはずはなく、どうしたって「有」の争う論理に巻き込まれてしまう。脱主体化を主体的に実現するというのは、根本的に矛盾をはらんでいたのです。

 しかも近代日本は、その誕生から「西欧に対抗するために西欧化する」という大きな矛盾を抱え込んでいました。それを哲学者の高山岩男は次のように書いています。「東亜の植民地に最も強い抵抗を示した我が日本が、新たにヨーロッパ風の文化を移植するということは、単にそれだけみれば甚だ矛盾した不可解な現象である」(「世界史の哲学」)
 日本が開国して近代化を選んだ明治期から現在まで、私たち脱主体化(=日本化)と主体化(=西欧化)のディレンマを乗り越えることができていません。むしろ、無反省に近代を受容し、グローバリズムにどっぷり浸かってしまった現在の日本は、欧米以上にニヒリズムに陥っているとすら言えます。

 現在まで続く日本の矛盾を、無の思想によって乗り越えようとした京都学派の試みは、西洋中心主義に投げ込まれていく当時の日本ではぎりぎりの思想的な試みでしたし彼らが直面した課題は、いまもなお取り残されたままなのです。」

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posted by Fukutake at 08:03| 日記

2022年05月24日

死者の音ない

「現代民話考 5」 松谷みよ子 ちくま文庫 2003年

死者の音ない(2)

 「昭和二十五年のこと。私の母は胃癌で永眠しましたが、その日の朝「きょうはあなたが、遠い遠いところに行くような気がしてならないから、できるだけそばにいてちょうだい」と申しました。そしてその晩、気分がいいからと布団に起き、私のこれからの生き方について、いろいろ話してくれました。そのあと眠るように昏睡状態になりました。懸命に呼び続ける私に、明方行った言葉は「きみこちゃん、下駄を出してちょうだい」でした。母の死の知らせに駆けつけた親戚の者の中のT叔父が、明方下駄の音がして、玄関の扉が開いたので、叔母と一緒に飛び起きたと申しました。実は死ぬ前、母が私に話をした時、なにか困ったことがあったらT叔父に相談しなさいと行っていたのです。私は母があの時、十代の一人娘のことが心配で、T叔父達にたのみに行ってくれたのだと思います。

 静岡県島田市宝来町。 昭和五十四年のこと。母は信心家で私が結婚し、夫の会社の社宅に入ると、神棚とお札、御幣まで一式を我家にもって来ました。或日の朝食どき御幣が、カタンと音をたてて倒れました。一瞬いやな予感が走りました。午後、愛知県の実家にいる妹から平戸橋(地名)の叔母さんが自殺したとの電話です。時間が丁度、叔母が自ら命をたった時間とほぼ一致するのです。叔母は私を大変可愛がってくれており、叔母の中ではただ一人、我家をおとずれ神棚に手を合わせた人でした。

 佐賀県杵島(きしま)郡白石町今泉。 昭和三十五年十月十一日の朝、父は最期を迎えた。時明かり(意識が戻り、一時的に正常になる事)だ、と親戚の庄八じいさんがいった。
「早よう、みんな別れば言いなさい」。父は「小さな弟妹は、眠いだろうから起こさなくてよい、七人の子らは心配ないが、京子だけは心配で死にきれん」と私の事だけしきりに兄や庄八じいさんに頼んでいった。「さあ、父さんはもう逝くけん兄弟仲良く生きてくれ、もう医者は迎えなくてもよいからな」と目をとじた。中学の弟は、急いで町までお医者を迎えに自転車で走った。長崎県佐世保市にいた伯母が胸騒ぎがして、気分が悪くなったのと弟の自転車のライトが突然、消えた時間が父の死亡時刻が一致するのがすごく不思議に思えます。朝方五時十分です。弟は、ああ、父が死んだんだと思ったそうです。その後、その自転車のライトはついていて、壊れるまで、消えることはなかったそうです。

 福島県。 昭和三十年頃。友人から聞いた話。葬箱というのは忙しいもんでさってばさあだ(すぐ必要だ)と。そこで昔は葬儀屋さんなんとねえから、大工殿手間のあいて居る時、手頃な材料で造って置く。外から見える処には置かぬが、常時三つ四つ位は仕事場の裏等に置いたものだと。百姓達は出来たのは高い、と言って板を買って来て造る。リアカーに板を積んで来多勢集まって、トンカチ、トンカチ造るんだが、ある時、夜中に大工殿の仕事場がたいそう賑やかだと。ネズミでも出たかとのぞいてみたところ、姉と弟らしい童(わらし)が二人、棺桶のふたをとって並べて、出たり入ったりキャッキャッと遊んでいた。次の日、棺買いに来た者が語るには、弟が池に落ち助けようと姉も落ちて死んだと。」

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死はそばにある。 

posted by Fukutake at 12:40| 日記