2025年02月06日

幕府ではなく天皇

「菅江真澄」ー旅人たちの歴史2ー 宮本常一 未来社

津軽と京都文化 p188〜

「鎌倉時代の一つの特色は、鎌倉街道というものがあったことなのです。それ以前 の道というのをみますと、京都を中心として、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽 道、南海道、西海道というように京都から道が出ていて、京都の人が名前をつけてい るんです。これは江戸時代も同じことで、東海道、中仙道、甲州街道、奥州街道などと それぞれ名前を付けています。鎌倉時代だけは鎌倉幕府は道へ名前を付けなかっ た。すると地方の人が鎌倉に行く道をすべて鎌倉街道と呼んだんです。ですから鎌倉 街道は一本ではなくて非常にたくさんあったわけです。その鎌倉街道が津軽の野にま でみられたんです。

それではそのようなつながりが、どうして皆の間に作られていったのかというと、この 津軽が南北朝時代に勤皇といいますか、吉野方ですね、その吉野方を支えた北畠氏 の最後の拠点だったのです。北畠顕家というのは鎮守府将軍で東北へ下って来て おった。それが和泉の石津という所で戦死します。しかしこの兄弟やお父さんになる 親房が立てこもったり、またその次男になるのが東北を守り続けて、ずっと南北朝時 代を過ごしますが、次第に北へ北へと追いつめられて、最後に落ち着いたのが津軽 平野の浪岡という所なんです。 浪岡御所というのがあります。そこにおって、最後に津 軽氏に亡ぼされることになって、北畠という家が消えているんです。で、そういうよう に、北の端にあってなお中央の公家の家がずっと最後まで続いていった。それは武 士化しておってもやはり京都からでた公家的な文化の要素を持っていたと考えられ る。その館も浪岡御殿といっても城とはいっていないのです。

 そういう家が津軽の地 に落ち着いておった。このように拾っていってみますと、意外なほど中央とのつながり があったわけなんです。ですからわれわれが考えると非常に僻陬(ひがすう)の地の ように思うけれども、そうではなかったということがわかります。 そういう話を、ふり返ってみておりますと、実に興味深いものがあるわけなのです。 私が一番いいたかったことは、東北というのは文化が停滞していて、そこの人たちが うじ虫のような生き方をしていたのではないという感じがしますけれども、そうではなく て、一番下のレベルに立って、そこで周囲のあるものをみますと、やはりその中で前 向きになって歩いておったんだということがわかるわけなのです。

そしてもう一つ大事なことは、われわれの習った歴史の中では、幕府のあることを 知っていて、天皇のあることを知らなかったというのですが、逆に、最下層の世界に は、これだけ話してても江戸が出てこないんです。ほとんど京都へつながっているの です。これが城下町へ行くと江戸へつながるのでしょう。この不思議な状態を一度検 討しなおしてみる必要があるのじゃないか。これは決して中央の命令でそうなったの じゃなかった。何かお互いが信頼し得る場というのが別にもう一つあって、その中心 がどうも京都だったらしいということです。これはやはり日本の文化を見て行く上に大事な問題だと思うのです。

 天皇制を云々するのではなくて、天皇制というのが今まで 保持されて来ておったのは、無理にそういうものが保持されたのではなくて、それが あることが民衆にとって一番安心しておられたし、皆が前向きになれたのだろう。前向 きになるということは、中央と同じような感覚をわれわれも持ちたいという気持ちが、 自分の土地をよくするという他に、もう一つあったんだという感じがするのです。」

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日本という国の一員という一体感が醸成される基。
posted by Fukutake at 12:14| 日記

国連軍

「国際政治」 高坂正堯 著 中公新書

朝鮮戦争の教訓 p135〜

 「アメリカは北朝鮮の侵略を撃退するために戦ったとき、それを国連軍による侵略排除の強制行動として正当化した。 一九五〇年六月、朝鮮事変がおこったとき、ソ連は安全保障理事会を欠席していたため、安全保障理事会により決議が可能となったためである。 それは形式的には国際連合による強制行動であったが、実際にはアメリカ軍による南朝鮮への援助であった。 国連軍の構成を見ても、アメリカが総勢力のうち地上軍九一パーセント、海軍九三パーセント、空軍九九パーセントを提供していたし、その指揮は米国政府の任命した司令官にゆだねられ、名前は国連軍司令官でも、実際にはアメリカ大統領に責任を負うことになっていて、国際連合はその軍隊を管理する権限をほとんど持っていなかった。

 じっさいに
この国連軍は国際連合による決議が可能にしたというよりも、アメリカの優越が可能にしたものであった。 だから、国連軍という名前はアメリカ軍に権威を与えたに過ぎなかった。 現実の世界では、国際機構が覇権を得るための手段となるということは、この場合も真実となったのである。

 この事例はごく特殊の、そして偶然の事例ではあっても、重要な一般的教訓として受け取らなくてはならない。 すなわち、異なった正義と力と利害の対立する現在の世界において、作られうる国際機構の強制行動は、たとえそれが可能であっても、一方の正義の押しつけという性格を帯びるということである。 当時の国際連合という見地から見る限り、国連軍の派遣とその権限は正当なものであった。

 北朝鮮の侵略は認定され、強制行動の勧告決議がなされた。 その前から国際連合総会は国際連合の監視のもとにおける統一選挙を提案してきていたし、それを拒否したのは北朝鮮のほうであった。 それから見れば、三十八度線を越えて全朝鮮を国連軍の支配下に置くことは、正当性を欠く行為ではなかった。 しかしそれをソ連や中国のほうからみれば、アメリカの意思の一方的な押しつけ以外のなにものでもなかった。

 そして、対立する勢力の一方が完全に反対する行為は、国際連合による行為ではなく、国際連合の名を借りた一方の行為ということになってしまうのである。
 おそらく、当時の際連合は世界の世論を代表していなかったし、共産圏の諸国はつねに少数派だったが、その後国際連合世界の世論をより正しく反映するようになったことを理由として朝鮮事変の教訓に一般性を与えることを批判する人があるだろう。 国連軍の教訓は、現在作られうる国際機構に強制力を与えようとする試みが、不可避的におちいる危険を示す一般的なものであると考えてよいように思われる。」

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国連には強制力はない。
posted by Fukutake at 12:08| 日記

2025年02月05日

鞍馬の魔力

「鬼むかしー昔話の世界ー」五来 重 角川選書

「鞍馬寺縁起」の鬼神 p30〜

「目一つの鬼」という観念は山神から出たもので、山神は鬼として表象されるととも に、山姥とか山爺(山父)、天邪鬼などとして昔話に出てくる。このような山神としての 鬼が人を食べようとした話は、仏教の縁起談としては、『扶桑略記』が延暦十五年(七 九六)の条に出す『鞍馬寺縁起』にある。これなどは、神話の人を喰う鬼が寺社縁起 にもちこまれて、それから助かるのは神や仏のお陰であった、という霊験談に転じた 例である。これがもう一転すると、大江山のように人を喰う鬼から助かるのは勇士の 武勇や知略による、という人間中心の昔話にあるのである。

『鞍馬寺縁起』は、『扶桑略記』に載っているので、すくなくとも十一世紀末にはできて いたことは確かであるが、私は、延暦十五年ということはできないにしても、十世紀初 頭ぐらいには成立していたとおもう。これは今鞍馬寺の奥之院にまつわる魔王尊大権 現を鬼として語ったものである。魔王尊はのちに天狗とかんがえられるようになるけ れども、すでにのべたように、山神は鬼とも天狗とも山姥とも語られたことがわかる。 この縁起は二つの部分から成っていて、前半は、造東寺長官藤原伊勢人が観音を 信仰し、観音をまつるよき寺地をさがしていると、夢で貴船明神から京都の北山を教 えられ、馬を歩けせて行くと霊地があって、そこへ毗沙門天像が落ちていた。そこで伊 勢人は鞍馬寺本願となって、毗沙門天堂と観音堂を建てたというのである。そして縁 起の後半では、この山中で一修行者がそのお堂の側で焚火をしていると、鬼神が出 てきて、この修行者を食べようとした、あとあり、ここ鬼一口のモチーフが使われている。

修行の禅僧、堂羽に来宿し、夜闇を破りて火薪を敲く。夜、参半に及び、鬼神 出て来る。其の形、女に類す。火に対して居る。禅僧恐畏す。鉄杖を焼いて鬼の胸を 衝く。忽焉(たちまち)に逃げ去る。即ち西谷の朽木の下に隠る。鬼即ち近づき來り、 口を開いて噉(くら)はんと欲す。時に禅僧、毗沙門を念ずれば、朽木忽ち顚(たふ)れ て、悪鬼を打ち殺す。天王の威力霊験、掲焉*(けちえん)たり。

寺社縁起ではその山にすでにまつられていた山神は、仏教的開山の高僧や山伏に 降参してその山を譲り、その山の守護神(護法善神)になったり、高僧の従者(金剛童 子)になってしまう。これは山岳宗教の縁起に共通したタイプであるが、『鞍馬寺縁起』 では、この山神の鬼を奥之院に祀ったことは書いていない。しかし庶民信仰ではこの 魔王尊の方に強烈な信者があって、ここに徹夜参籠するものが今になって絶えない ので、寺としても粗末にはできないのである。」

掲焉* (ケイエン/ケチエン)際立っている様。

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霊物たる鬼と庶民信仰の止揚。
posted by Fukutake at 06:58| 日記