2018年11月13日

大量殺戮

「共同研究 パル判決書(下)」 東京裁判研究会編 
  講談社学術文庫 1984年
(その9)

原子爆弾の使用

p589〜

 「ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、かの戦争(第一次世界大戦)の初期に、オーストリア皇帝フランツ・ジョゼフにあてて、つぎのようなむねを述べた書簡を送ったと称せられている。すなわち、「予は断腸の思いである。しかしすべては火と剣の生贄とされなければならない。老若男女を問わず殺戮し、一本の木でも、一軒の家でも立っていることを許してはならない。フランス人のような堕落した国民に影響を及ぼしうるただ一つのかような暴虐をもってすれば、戦争は二ヶ月で終焉するであろう。ところが、もし予が人道を考慮することを容認すれば、戦争はいく年間も長引くであろう。したがって予は、みずからの嫌悪の念をも押しきって、前者の方法を選ぶことを余儀なくされたのである。」
 これはかれの残虐な政策を示したものであり、戦争を短期に終わらせるためのこの無差別殺人の政策は、一つの犯罪であると考えられたのである。
 われわれの考察のもとにある太平洋戦争においては、もし前述のドイツ皇帝の書簡に示されてことに近いものがあるとすれば、それは連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世が下すであろう。
 かような新兵器を使用に対する世人の感情の激発というものが不合理であり、たんに感傷的であるかどうか、また国民全体の戦争遂行の意志を粉砕することをもって勝利をうるという、かような無差別鏖殺(おうさつ)が、法に適ったものとなったかどうかを歴史が示すであろう。「原子爆弾は戦争の性質および軍事目的遂行のための合法的手段にたいするさらに根本的な究明を強要するもの」となったか否かを、いまのところ、ここにおいて考慮する必要なない。
 もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには十分である。このようなものを現在の被告の所爲には見出しえないのである。」

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ナチスの政策=原爆使用の決定

posted by Fukutake at 10:28| 日記

2018年11月08日

ハル・ノート

「共同研究 パル判決書(下)」 東京裁判研究会編 
  講談社学術文庫 1984年
(その8)

米国の最後通牒

 p440〜

 「(一九四一年)十一月二十六日付のハル覚書と同年六月二十六日の米国の提案の各条件を、並列して比較してみよう。するとつぎのようになる。

十一月二十六日
大丸1︎ 多数国間の不可侵条約
大丸1︎ 仏印に関する多数国間の条約

大丸1︎ 日本の陸、海、空軍および警察の中国および仏印からの即時および無条件の撤退
大丸1︎蒋政府以外の中国政府または政権の否認 (日独伊)三国同盟条約の破棄
大丸1︎中国における治外法権、租界および団匪事件にもとづく権利の放棄

六月二十一日案三三一
(該当なし)
(該当なし)
大丸1︎ 日本軍隊の中国からの撤退についてその時期および条件は今後さらに討議する(仏印について該当なし)
大丸1︎ 満州国に関する友誼的交渉
大丸1︎ 日本は三国同盟の解釈において、米国の自衛行動に対しては三国同盟は発動しないという、米国にとって満足すべき解釈をなす。
(該当なし)

 被告はこの覚書を最後通牒と考えた。ある被告の指摘したように『このような政治的条件あるいは事態は、おのずから朝鮮地域まで影響を及ぼすであろう。』換言すれば、日本は朝鮮から撤退しなければならない窮地に追い込まれたであろう。
 日本の大陸における権益はまったく水泡に帰し、日本のアジアにおける威信は地に墜ち、『対外的情勢においては、今日の日本の状況になるといっても差しつかえないわけであります。これはすなわち満州事変の情況よりも日本の状態は非常に悪くなって…それ以上に日露戦争前の状況に還れという要求であります。これはすなわち日本の東亜における大国としての自殺である云々』
 現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『今次大戦についていえば真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈をとってたちあがったであろう』。
 現代の米国歴史家はつぎのように述べている。すなわち
 『…日本の歴史、制度と日本人の心理についてなんら深い知識を持たなくても、一九四一年十一月二十六日の覚書についてつぎの二つの結論を下すことができた。第一に日本の内閣は、たとい「自由主義的」な内閣であろうと。また「反動的な」それであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒すことなしには、その覚書の規定するところを交渉妥結の基礎として受諾することはできなかったであろう。第二に、米国国務省の高官、とくに極東問題担当の高官はすべて右の覚書が作成されているときに日本政府が「太平洋の平和維持を目的」とする会議再開のプログラムとしては、この覚書をとうてい受諾しないであろうということを感知していたに相違ないのである。同時にまたルーズベルト大統領とハル国務長官が東京(日本政府)はこの覚書の条項を受諾するだろうとか、またこの文書を日本に交付することことが、戦争の除幕になることはあるまいと一九四一年十一月二十六日(の遅きにいたって)考えるほど、日本の事情にうとかったとは、とうてい考えられないことである。』

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日本を戦争に引きずり込む悪辣な企図、すなわち全面的共同謀議が米国にこそあった。

posted by Fukutake at 13:17| 日記

2018年11月05日

開国の強制

「共同研究 パル判決書(下)」 東京裁判研究会編 
  講談社学術文庫 1984年
(その7−2)

 日本が強要された開国の事情
 p228〜

 「本官は、一八五三年から一八九四年までの…期間中西欧列強のなした全ての事情が『純粋な心からの崇高な目的』をもってなされ、そしてたんに西欧との交際の恩恵に与らしめるためになされたものと仮定しても、これをなすにあたって採用された手段は、明らかに日本にとっては首肯できないものであった。しかしながら国際法上においては、それはたんなる日本の「平和的開国」であった。一八五四年の合衆国、大英帝国およびロシアとの諸条約が、この経緯の発端である。日本は条約を結ぶためにあらゆる正式の「要請」を許容しなければならなかった。しかしこれらはたんなる序の口であった。新しい要求といっそうの譲歩がこれに続いたのである。
 一八五八年の七月には「六月の清国に大英帝国およびフランスの艦隊および軍隊の圧迫下に、両国と、新しい条約に署名することを強いられたという報せをもたらした合衆国の船が、下田に到着した。そしてこれらの勝ち誇った連合軍は、その艦隊を引き具して日本に向かおうとしていると報ぜられたのである。」この報は首都を驚倒させた。七月二十九日の早朝、日本は新しい条約に署名することに同意した。「清国において欧州諸国の干渉が成功を収めたことは、おそらく日本からおなじような条件をかちえるための強硬な努力の動機になるであろう。もしも皇室がさらに譲歩することを禁じ続けたならば、敵対行為が起こる可能性は大いにあった。…」。「数週間以内にロシアおよび大英帝国の代表者が清国に到着し、しばらくしてフランスの使節も続いて到着した。長崎からはオランダの使節もまた新しい条約を求めて到着した」。
 日本はこれらの四つの条約を締結しなければならなかった。
「もしも威嚇的な武力を楯にとって、この譲歩が獲得せられたのであれば、この新しい国交は、あらゆる勤王派の胸に悲憤の念を起こさせる条件のもとに開始されたであろう」ということが、われわれに告げられているのである。実際に採用された手段が、どのようにしてこの悲憤の念の発生を防いだかを理解することは困難である。われわれは、西欧諸国にこれらの行動をとる資格を与えている。かられが「直面した事態」はなんであったか正確には知らない。しかしなから国際社会は、これをたんに人間の行動を規定し、そしてまたそれを否定する事態の推移としてしか見ないのである。
 …
 この後、これらの条約の改正のための日本の闘争が始まるのである。この闘争は一八九四年まで続いた。この期間日本は、西洋思想および科学の偉大な成果をわがものにしようと、あらゆる努力を払った。また日本は、かようにして参加を強いられた世界においては、正当と正義とは軍艦と軍団の数によって測られるものであることをも、おそらく自覚したものであろう。」

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明治日本は西欧のルールを苦しみながら学んだ。

 
posted by Fukutake at 09:54| 日記