2019年03月20日

精神病になる

「ひき裂かれた自己」R.D.レイン  みすず書房 1971年
(その2)

 p185〜

 精神病への発展

 「…そこには世界との<生ける接触>の喪失がある。そしてそのかわりに、他者や世界との関係は、前にも述べたように、にせ自己の体系によってとりしきられることになるのであるが、このにせ自己の体系の知覚、感覚、思考、行動などは相対的に低い現実<係数>しかもたない。この状況にある人間は、比較的正常に見えるかもしれないが、このような正常との外見上の類似性を維持するためには、ますます異常な、そして絶望的な手段が必要となってくる。自己は白昼夢の中で、<精神的な>ものからなる私的な<世界>と、つまり自分自身だけを対象とする私的な世界との関係を結ぶ。そして実生活において他者との<共有の世界>と関係を結ぶのは自己ではなくにせ自己のみとなり、自己はこのにせ自己を観察するということになる。つまりこの現実の他者と分かちもたれる世界における他者との直接のコミュニケーションは。にせ自己の体型に譲り渡されているわけであるから、自己はこのメディアをとおしてのみ、外なる<共有の世界>とのコミュニケーションが可能となるのである。だから最初は、自己に対する破壊的な危害を予防するための守備軍あるいは防壁として作られたものがついには自己を閉じこめる牢獄の壁となりうるのである。
 このようにして世界に対する自己の防衛は、防衛というもののもつ一次的機能さえ喪失するにいたる。つまり他者に物としてとらえられ操られるのを妨げることによって、迫害的な力の侵入(内破)を防ぎ、自己を生きのびさせようという本来の機能をさえ失うのである。そして不安は以前よりもはるかに強く忍び寄ってくる。知覚の非現実性とにせ自己の体系がもつ目的の欺瞞性とは、やがてひろがって、他者と共有される世界全体の死を感じさせるようになり、さらには身体にも、いや事実上すべてのものに及び、ついには<真>の自己にさえ侵入するにいたるのである。<白昼夢化>され、引き裂かれ、死に、不安定ながらも当初持っていた自分自身のアイデンティティの感覚さえ、もはや維持できなくなる。そしてこの状態は、防衛の中でよりによって最も不吉な可能性が使用されることによって、悪化していく。例えば、アイデンティティを保持しておくために、アイデンティティを他者に確認されることからのがれるという防衛をもちいる。(というのは、まえに指摘したように、アイデンティティを達成し保持するためには二つの側面が必要であるからである。つまり、個人が自分は自分自身だとする単純な確認と同時に、他者によって自分が確認されることが必要である。あるいは、生きることの苦痛に対する防衛として<生きながらの死>の状態を計画的につくりあげる。こういう可能性が用いられることによって、この状態はますます悪化していくのである。


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posted by Fukutake at 11:51| 日記

2019年03月16日

現象学的精神分析

「ひき裂かれた自己」R.D.レイン  みすず書房 1971年
(その1)

 p44〜

 精神病理解のための実存的- 現象学的基礎

 「たとえば、あるひとが自分は<非現実の人間>だとわれわれに告げる場合、彼が嘘をついたり冗談を言ったり一種巧妙なやりかたで言い抜けしたりしているのでなければ、疑いもなく、彼は妄想者と見なされる。しかし実存的にはこの妄想は何を意味しているのであろうか。事実彼は冗談をいっているのでもいつわりをいっているわけでもない。反対に、彼は自分は数年来実在の人間であるふりをしてきたが、もはやこれ以上ごまかしつづけることができなくなった、と言っているのである。
 彼の生活全体は、自己を露呈したい欲望と自己を隠蔽したい欲望とのあいだで、ねじまげられてきた。われわれもまたみな彼とともにこの問題を分かちもっている。しかしわれわれはみな多少とも満足すべき解決にまで到達できたわけである。われわれはそれぞれが秘密と、告白したい要求とをもっている。われわれの幼年時代、大人たちが初めはわれわれをいかに正しく見抜き、われわれの心のなかまでのぞくことができたかを思い出すことができよう。恐れおののきながら、われわれがはじめての嘘を言うことができたとき、そして、われわれがある点においては自分たちが救いようもなく孤独であることを発見し、われわれ自身の領土内にはわれわれ自身の足跡しかないということを知ったとき、それはわれわれにとっていかに大変なことであったか。けれども、こういう境涯にある自分というものを、完全に現実にさとることのできない人びとがいる。今述べたような真正の秘密(プライヴァシー)こそ、真正の関係(リレーション)の基礎である。だが<分裂病質者>と呼ばれる人びとは、他者にたいしてわれわれ以上に暴露されており、傷つきやすく、また孤立していると感じている。だから、分裂病者が、次のようにいうことがあるのである。自分はガラスでできていて透明でこわれやすいので、自分に向けられたまなざしが自分を粉みじんに打ち砕き、自分を真直ぐにつらぬき通す、と。そしてわれわれは彼がそのとりに体験していると想像してよい。

 彼は楽しいときに泣き、悲しいときに笑うことをまなんだ。彼は賛成のときに眉をひそめ、不快なとき拍手した。<あなたの見ることのできるすべてが私ではない>と彼は心中ひそかに自分にいう。けれどもわれわれが見ることのできるすべてのなかでしか、またそれを通してしか。彼は(現実の中で)何者かでありえない。もしわれわれの見るこれらの行動が彼の現実の自己でないなら、彼は非現実の存在である。つまり、完全に象徴的なあいまいな存在であり、かつ純然たる潜在的、可能態的、想像的な人物であり、<神話的>人間だということになり、<現実的には>無である。」
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誰でもある程度は心にそういう自分をもっている。
posted by Fukutake at 12:13| 日記

2019年03月14日

人の命は雨の間を待たぬ

「徒然草 第百八十八段(後段)」

現代語訳
 「… 一つのことを絶対にやりとげようと思うなら、その他のことがだめになることを嘆いてはいけない。人からいくら嘲笑されても恥じてはいけない。万事を犠牲にしなくては一つの大事は成就できるはずがない。人が大ぜい集まっていた中である者が、「“ますほのすすき”とか“まそほのすすき”とかいうことがある。渡辺に住む聖が、このことについての伝授を受けてよく知っている。」と語ったのを、登蓮法師がたまたまその座に居合わせていたのですが、聞いて、ちょうど雨が降っていたもので、「蓑・笠がありますか。お貸しください。あの薄のことを習いに、渡辺の聖のものへ尋ねて参りたいと思います。」と言ったのを。「それではあまりにせっかちというものだ。雨が止んでからにすればいいではないか。」と人々が言ったところ、「とんでもないことをおっしゃるものですね。人の命は雨のはれ間を待っていてくれたりはしません。私も死に、聖も亡くなったら尋ね聞くわけにはいかなくなるでしょう。」と言って、駆け出して行って習ってきましたと語り伝えているのは、まことに立派な、たぐいまれな話だと思われる。「何事も機敏にとりかかるときは、仕事の実績が上がるものだ」と、『論語』という書物にも書かれているそうです。登蓮法師がこの薄のことを不審をいだいて、すぐに尋ねに行ったように、悟りの道に入ってゆくきっかけをつかもうと心がけがなければいけないのである。」

(原文)
  「一事(いちじ)を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多(あまた)ありける中にて、或者、「ますほの薄、まそほの薄など言ふことあり。渡辺の聖、この事を伝え知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるるものかな。人の命は雨の晴れ間を待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し伝えたるこそ、ゆゆしく、有難う覚ゆれ。「敏き時は、即ち功あり」とぞ、論語と云ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。」

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一大事の他は目もくれるな。
posted by Fukutake at 12:10| 日記